ユーグ4世_(ブルゴーニュ公)
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ユーグ4世
Hugues IV
ブルゴーニュ公
ユーグ4世のシール
在位1218年 - 1271年

出生 (1213-03-09) 1213年3月9日
ブルゴーニュ公領、ヴィレンヌ=アン=デューモワ
死去 (1271-10-27) 1271年10月27日(58歳没)
ブルゴーニュ公領、ヴィレンヌ=アン=デューモワ
埋葬ブルゴーニュ公領、サン=ニコラ=レ=シトー、シトー修道院
配偶者ヨランド・ド・ドルー
 ベアトリス・ド・ナヴァール
子女一覧参照
家名ブルゴーニュ家
父親ブルゴーニュ公ウード3世
母親アリックス・ド・ヴェルジー
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ユーグ4世(フランス語:Hugues IV, 1213年3月9日 - 1271年10月27日)は、ブルゴーニュ公(在位:1218年 - 1271年)。ウード3世とその2番目の妃アリックス・ド・ヴェルジーの息子[1]
生涯

1218年に父の死去により公位を嗣いだ。

1237年、ユーグ4世はシャロン伯ジャン1世と取引し、自身のサロン男爵領とジャン1世のシャロン伯領およびオーソンヌ(Auxonne)伯領を交換した。これによりブルゴーニュ公領は拡大し[2]、ワイン貿易により経済的な利益を得た。

1239年、ユーグ4世はナバラ王テオバルド1世が率い、神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世 が支援したバロン十字軍(英語版)に参加した[3]。ブルゴーニュ軍はコーンウォール伯リチャードと同盟を結んでアシュケロンを再建し、1241年にエジプトと和平交渉を行った[4]。ユーグ4世は1266年にテッサロニキ王国の名目上の王とされたが[5]、王国はすでに40年以上前にエピロス専制侯国により奪還されていた。

ユーグ4世は1271年10月27日にヴィレンヌ=アン=デューモワにおいて60歳で死去した。
子女

16歳のときに、17歳であったドルー伯ロベール3世の娘ヨランドと結婚し[6]、以下の子女をもうけた。

ウード(1230年 - 1269年) - ヌヴェール伯およびオセール伯。娘マルゲリータ・ディ・ボルゴーニャナポリシャルル・ダンジューの2番目の王妃となる。

ジャン(1231年 - 1268年) - ブルボン女子相続人アニェスと結婚した。娘ベアトリスクレルモン伯ロベールと結婚し、ブルボン家の祖となった。

アリックス(1233年 - 1273年) - ブラバント公アンリ3世

マルグリット(1230年代 - 1277年) - モン=サン=ジャン領主ギヨーム3世と結婚[7]、のちリモージュ子爵ギー6世と結婚[7]

ロベール(1248年 - 1306年) - 長男のウード、次男のジャンが早世したため、ブルゴーニュ公を継承。

45歳のときにナバラ王テオバルド1世の王女ベアトリスと再婚し[8]、以下の子女をもうけた。

ベアトリス(1260年 - 1328年) - ラ・マルシュ伯ユーグ13世・ド・リュジニャンと結婚

ユーグ(1260年 - 1288年) - モンレアル領主、アヴァロン子爵。シャロン伯ジャン1世の娘マルグリットと結婚。

マルグリット(? - 1300年以降) - アルレ領主ジャン1世・ド・シャロン=アルレ(アンスカリ家)と結婚[9]

ジャンヌ(? - 1295年) - 修道女

イザベル(イザベラ、エリザベート)(1270年 - 1323年) - ローマ王ルドルフ1世の2番目の妃[9]

脚注^ Setton 1976, p. 492.
^ Cox 1999, p. 362.
^ Bradbury 2007, p. 210.
^ Richard 1999, pp. 325?327.
^ Topping 1975, p. 109.
^ Lower 2005, p. 97.
^ a b Du Chesne 1628, pp. 79?80.


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