ユルバン・ジャン・フォーリー
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ユルバン・ジャン・フォーリー
Urbain Jean Faurie

教会カトリック教会
聖職
司祭叙階1873年
個人情報
出生1847年1月1日
フランス王国オーヴェルニュ地方デュニエール村
死去1915年7月4日(1915-07-04)(68歳)
台湾台北市
国籍 フランス
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ユルバン・ジャン・フォーリー(Urbain Jean Faurie, 1847年1月1日 - 1915年7月4日)はパリ外国宣教会所属のフランス人宣教師である。

1873年明治6年)に訪日し、翌1874年(明治7年)頃から布教活動の傍ら植物採集をおこなった。日本で活動した「最後の外国人プラントハンター」と言われている。
目次

1 生涯

1.1 生い立ち

1.2 新潟赴任と植物との出会い

1.3 東京脱出

1.4 青森、北海道へ

1.5 強制帰国

1.6 青森教会主任司祭として

1.7 台湾へ

1.8 死後


2 功績

3 関連項目

4 脚注

5 参考文献

6 外部リンク

生涯
生い立ち

1847年弘化4年)1月1日[1]フランスオーヴェルニュ地方にあるデュニエール村の農家に生まれる。生まれた時から身体が弱く、幼児の時に耳の病気になり聴覚障害者となった。両親は方々の医者に診せたり様々な薬を試したが治らず、母親はフォーリーを連れてラルーヴェスク(Lalouvesc(フランス語版))にある聖フランシスコ・レジスの墓に巡礼したところ聞こえるようになった[2]1958年安政5年)にラ・サール会経営の小学校を卒業した後、モニストロルの小神学校に入学し、1869年明治2年)にはパリ外国宣教会の神学校に進学した[3]。卒業後の1873年(明治6年)6月7日、司祭叙階されたのち、直ちに日本へ派遣され同年8月21日に来日した。
新潟赴任と植物との出会い

来日後、しばらくは日本語学修の傍らカトリック神田教会の前身である外国語学校でフランス語を教える教師をしていたが、1873年(明治6年)の秋には助任司祭として新潟教会へ赴任した。新潟での布教活動はまったく成果が上がらず、フォーリーは悲嘆する日々を送っていたが、1874年(明治7年)に植物学者のアドリアン・ルネ・フランシェより依頼を受け、日本の植物採集を始めた[4]。また同年4月には新潟教会の主任司祭だったイブラードのもとへ原敬書生として働く事となったため、フォーリーは原と日常生活を共にし日本語を学んだ[5]

フォーリーは新潟を中心に新発田五泉三条地方へ布教活動も兼ねて植物採集を行い、標本をフランスのフランシェへ送った。1875年(明治8年)、フランシェはフォーリーの標本を元にルドヴィク・サバティエと共に『日本植物目録』(Enumeratio Plantarum in Japonia Sponte Crescentium) を発表した。更に1879年(明治12年)には『フランス植物学会誌』第26巻82項に自身の研究を発表した。その後、フランシェはパリ自然史博物館に勤務するようになったため、フォーリーもパリ自然史博物館との関係を結ぶようになった。

1875年(明治8年)9月、主任司祭のイブラードが横浜へ転任となり、原敬も新潟を去った。翌10月にイブラードの後任であるドルワールが新潟教会の主任司祭に着任すると、フォーリーはドルワールと共に布教活動を行った。この頃になると少しずつ信徒も増え布教活動の成果が見られるようになったが、1877年(明治10年)9月に新潟へ赴任してきたツルペンと交代し東京へ転出した。
東京脱出

1876年(明治10年)10月にカトリック神田教会の助任司祭に赴任したが、1879年(明治12年)6月にはカトリック浅草教会へ転属し、カトリック本所教会設立や孤児院の運営に携わった。1881年(明治14年)には浅草教会主任司祭のラングレーが病に倒れ孤児の世話が出来なくなったため、フォーリーは孤児院の院長に任命される。しかし、院長の職務に不満だったフォーリーは「自分が日本に来たのは小さい子供たちの小便の世話をするために来たのではない」と言って嘆いた[6]。その後、フォーリーは東京脱出を企て、意図的に孤児院にあった立派な日本庭園を上司に無断で破壊し、野菜畑に変えてしまった。この行為は予想通り多くの信徒の反感を招き、次第にフォーリーへの非難が激しくなっていった。それに対し、初めは黙殺の態度をとっていた日本北緯使徒座代理区教区長のピエール・マリー・オズーフも、ついにフォーリーを北海道及び青森県の巡回布教師という職を与え函館へ転出させた[7]
青森、北海道へ

1881年(明治14年)12月、すでに東京を離れ札幌に来ていたフォーリーは、1882年(明治15年)1月15日、札幌に伝道所を開設する。また弘前では教会建設のために土地を購入した。その後、東京に戻りフォーリーの後任としてジャン・ピエール・レイが孤児院を担当することになったので、1883年(明治16年)の8月頃、正式に函館に赴任した。函館にはすでにペティエが赴任しており、函館地区をペティエ、その他の北海道全域と千島、青森県全域という広大な地域をフォーリーが受け持つ事となった。青森・北海道においての布教活動は順調に進み信徒も順調に増え、1884年(明治17年)には青森に伝道所を開設し、その合間にも植物採集を行った。

1887年(明治20年)、パリ自然史博物館から通信員として委嘱されたことにより、植物採集の範囲はさらに広がった[8]。また弘前地方のリンゴ栽培家と交流のあったフォーリーは、当時、形を仕立てず自然のままに育てる自然仕立が最良と考えられていた時代に整枝剪定思想を指導した。


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