ユリウス=クラウディウス朝(ユリウス=クラウディウスちょう、英語:Julio-Claudian dynasty)は、古代ローマ帝国の王朝で、初代皇帝アウグストゥスに始まる5人の皇帝(アウグストゥス、ティベリウス、カリグラ、クラウディウス、ネロ)の治世を指す[1]。
紀元前27年から紀元68年まで約100年間続いた。 ローマ崩壊まで長きにわたり続くことになる帝政ローマの基盤を築き上げた王朝ではあるが、その治世についてはタキトゥスやスエトニウスを初めとする同時代の歴史家たちから一貫して批判的に評された(ただし共和制に対する擁護が背景にあることを踏まえておく必要がある)。 「…かつてのローマにおける支配者達が敗れ行く様子は、優れた歴史家達によって記録された。そうした歴史家達の誰もがアウグストゥスの治世を喜んで記述する事はなく、その後のティベリウス、カリグラ、クラウディウスの時代に至っては嘘で埋め尽くされた。そしてその皇帝が死ぬと鬱憤を晴らすように真実を書き連ねるのが常だった。」 ?タキトゥス(『年代記』[2]より) また、ユリウス=クラウディウス朝に関することで特徴的なのは、どの君主も直系の嫡男を皇帝(後継者)にできなかったという点である。アウグストゥス死後、子孫たちはその血統を維持するために傍系や外戚による複雑な継承を行った。彼らの王朝は「ユリウス=クラウディウス朝」と呼ばれるが、これはアウグストゥスの属するユリウス氏族による世襲が途絶えた後、外戚であったクラウディウス氏族の人物が継承したことを示している。 ただし、途絶えたのはあくまで「アウグストゥスの系譜」であって、ユリウス氏族自体は元から他の支流が無数に存在している。そもそも氏族という概念はいわゆる家族(一族)とは縁深いものの、同一の概念ではない。家族が強い血縁関係で結ばれた血族であるのに対し、氏族はその複数の一族にとっての「共通の祖先」が誰であるかという概念でまとまる集団である。それは太古の偉人である場合もあれば、神話的な要素を持った神や英雄であったりするものであり、単純な血縁という意味では遠い(他人に近い)ことも稀ではない。 つまり、日本における氏(ウヂ)に近い制度であり、従って同じユリウス氏族でもアウグストゥスと縁が遠ければ帝位継承とはならず、氏族上は異なっても血縁上は近いクラウディウスらが即位したのである。彼らの権力基盤は王朝名に掲げられている氏族よりも、アウグストゥス個人との連続性という「家系」であった。ローマ社会においては、こうした氏族名を家族名・個人名を併せて名乗る習慣があった。 とはいえ、家系という面でも「アウグストゥスの一家」の男系継承が途絶えていることに違いはない。さらに言えば、アウグストゥス自身も女系からの養子という形でカエサル家を継いでおり、厳密にはカエサリオンの死によってユリウス氏族カエサル家の男系継承は断絶している。 民衆派の指導者として元老院の支配を打倒したオクタウィアヌスは、アウグストゥスと名を改めて事実上の世襲君主による帝政(プリンキパトゥス)を開始した。しかし肝心のアウグストゥス本人が男子に恵まれず、また男子の兄弟もいなかったことから男系子孫による世襲を早い段階で諦め、一人娘の大ユリアと姉の息子マルケッルスをいとこ婚させて、少しでも自身に近い血縁で帝位を独占しようと試みた。 だが、マルケッルスは紀元前23年に食中毒で子を残さずに早世してしまい、アウグストゥスは次に娘を腹心であったアグリッパと再婚させた。今度は3人の男子が生まれたが、長男ガイウス・カエサルは戦死、次男ルキウス・カエサルは早世、そして三男のアグリッパ・ポストゥムスは祖父と対立して追放された。 孫を失った後、アウグストゥスはアグリッパ死後に大ユリアへ3度目の再婚を命じた。今度の相手は自らの後妻リウィア・ドルシッラの連れ子であり、弟大ドルススと並んで優れた軍司令官として知られていたティベリウスであった。ティベリウスと大ユリアは決して良好な間柄ではなく、結婚生活の不調もあってアウグストゥスと敵対したティベリウスは一時期、自発的にロドス島へ亡命生活を送っていた。 しかし、ティベリウスの弟である大ドルススがマルクス・アントニウスの次女小アントニアと結婚して子供(ゲルマニクスとクラウディウス)を得ていたこともあり、「甥の後見人」という立場でポストゥムス追放後にティベリウスを帝位継承者に指名した。 西暦14年8月19日、アウグストゥスが病没した時、ティベリウスは既に政治的後継者として権力を引き継いでいたが、残された遺言によって明確に帝位移譲が確かめられた。これにより、帝位はユリウス氏族から外戚となっていたクラウディウス氏族へと移った。 即位時点で既に元老院との不和という問題を抱えていたティベリウスであったが、初期の治世は平穏に進んだ。跡継ぎについてもアウグストゥスの遺言に従って甥のゲルマニクスを指名したが、これは先帝の約束に加えて民衆の人気がゲルマニクスにあったためでもあり、さらに言えばティベリウス自身も実子ドルススより気に入っていた。ゲルマニクスも期待に応え、優れた軍司令官としてゲルマニアでの遠征に勝利を重ね、帝国の英雄として更に人望を高めた。ところがゲルマニクスはシリア滞在中に謎の病死を遂げた。突然の死に、皇帝ティベリウスとシリア総督ピソによる暗殺が疑われている。ともかくこれを契機に、ティベリウスは後継者として実子ドルススを指名することを宣言した。 また治世中期から、次第にティベリウスの治世は苛烈な内容へと変貌し始めた。旧友である近衛隊長セイヤヌスの下に国中で衛兵による取り締まりが行われ、半ば恐怖政治じみた行動によって、帝国は密告と処刑が繰り返される時代を迎えた。反逆罪による逮捕や処刑が日常の様子となり、貴族ら上流階級の人間も例外なく粛清された。さらにティベリウスは帝都を離れてカプリ島に隠棲し、スエトニウスによれば少年少女を集めて乱行騒ぎに明け暮れたという。嗜虐癖のあるティベリウスは戯れに少年の足を護衛兵に折らせて楽しんでいたとも言われているが、スエトニウス以前の書物にはこういった記述が存在せず、スエトニウスのカプリ島の描写に不自然な点があることから、現在ではスエトニウスの創作であるとする説が有力である。 恐怖支配は、ティベリウスのパラノイアが深まるにつれてエスカレートしていったが、それは粛清の実行者であるセイヤヌスの専横を意味した。ティベリウスが帝都を避けてカプリ島に隠棲すると、状況は更に深刻となった。セイヤヌスは皇帝の一族との親類関係を結ぶなど権力を高めていった。だが、隠居していたティベリウスは、元老院に密かに送った書状によってセイヤヌスを捕らえ、一族郎党と共に処刑した。 帝位継承から23年目となる西暦37年3月16日、ティベリウスは77歳で死亡した。恐らくは自然死であろうと見られているが、スエトニウスはカリグラの即位を早めようとした親衛隊長官マクロによって暗殺されたと記述している。 ティベリウスの死後、新しい皇帝には、本来の予定者であった甥ゲルマニクスの遺児であり、大ユリアの娘である大アグリッピナの子でもあるガイウス・ユリウス・カエサル・アウグストゥス・ゲルマニクスが選ばれた。彼は父方でクラウディウス氏族に属しつつユリウス氏族の母を持っていたことから、「最初のユリウス=クラウディウス朝の君主」とも呼びうる。アウグストゥス・ゲルマニクスはカリグラという渾名で知られており、多くの歴史家も彼をこの名で呼び分けている。 ティベリウスは生前において、カリグラを継承者とすることにあまり前向きでなかった。しかしカリグラは、父方におけるアウグストゥスの姪小アントニアの血統もさることながら、母大アグリッピナがアウグストゥスの孫娘であった。双方共に女系の縁者ではあるものの、一族内で最もアウグストゥスに近い血統を持つカリグラを後継者にすることは避けがたかった。ティベリウスはかつての自分と同じく条件付きの後継者とし、孫ティベリウス・ゲメッルス(長男ドルススの子)を共同皇帝とするように命じた。
概要
5皇帝の像
インペラトル・カエサル・ディウィ・フィリウス・アウグストゥス
ティベリウス・ユリウス・カエサル・アウグストゥス ティベリウス・ユリウス・カエサル・アウグストゥス
ガイウス・ユリウス・カエサル・アウグストゥス・ゲルマニクス
ティベリウス・クラウディウス・ネロ・カエサル・ドルスス
ネロ・クラウディウス・カエサル・アウグストゥス・ゲルマニクス
治世
アウグストゥス
ティベリウス
カリグラ
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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