ユリウス暦
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暦法今日の日付(協定世界時
グレゴリオ暦2024年04月25日
ユリウス暦2024年04月12日

ユリウス暦(ユリウスれき、: Calendarium Iulianum、: Calendario giuliano、: Julian calendar)は、共和政ローマ最高神祇官独裁官執政官ガイウス・ユリウス・カエサルにより紀元前45年1月1日[注釈 1] から実施された、1年を365.25日とする太陽暦である。もともとは共和政ローマおよび帝政ローマの暦であるが、キリスト教の多くの宗派が採用し、西ローマ帝国滅亡後もヨーロッパを中心に広く使用された。

ローマ教皇グレゴリウス13世1582年10月4日の翌日から、ユリウス暦に換えて太陽年との誤差を修正したグレゴリオ暦を制定・実施したが、今でもグレゴリオ暦を採用せずユリウス暦を使用している教会・地域が存在する。グレゴリオ暦を導入した地域では、これを新暦(ラテン語: Ornatus)と呼び、対比してユリウス暦を旧暦と呼ぶことがある。

なお、天文学などで日数計算に用いられるユリウス通日があるが、これはユリウス暦とは全く異なるものである。
概要

平均太陽年を365.25日とする太陽暦の一種であり、1年を365日とする年と4年に1回366日とする年を設けた。 365(日)+ 1/4(日) = 365.25(日) …… 1年間の平均日数(平均年)

月は従来のローマ暦のものを基本的に踏襲し、月ごとの日数を調整して合計を平年の365日または閏年の366日とした。閏日が加えられる閏年は4年ごとに1回設けられ、ローマ暦時代の閏月と同じく2月に挿入された。

なお、ユリウス暦は「紀年法」ではなく、「暦法」である。ユリウス暦が採用されていた時代の紀年法には、45世紀頃、アレクサンドリアキリスト教徒が用いたディオクレティアヌス紀元(皇帝ディオクレティアヌスの即位(284年)を紀元とする)、それを6世紀ローマの神学者ディオニュシウス・エクシグウス525年頃の著書『復活祭の書』(復活祭暦表)でローマ建国紀元754年をイエス・キリスト生誕元年とするキリスト紀元(いわゆる西暦)がある。キリスト紀元は10世紀頃に一部の国で使われ始め、西ヨーロッパで一般化したのは15世紀以降のことであるという。ユリウス暦における置閏法の成立は、キリスト紀元の考案に先行するものであるが、閏年は偶然にも同紀元が4で割り切れる年と一致しており、グレゴリオ改暦の際にもこの法則が使われている[1]

制定の経緯については、ローマ暦#末期のローマ暦を参照のこと。
ユリウス暦の精度

ユリウス暦では、1年は365.25日 = 31 557 600 秒である。これに対して、実際の太陽年は、2015年時点で、31 556 925.168秒 = 約365.242 189 44日である。その差は、674.832 秒 = 11分14.832である。86 400 秒( = 1日)/674.832 秒 = 128.032 であるから、約128年で1日のずれが、約1280年で10日ものずれが生ずることになる。カエサルの活躍した古代においては格段に正確な暦ではあったが、このような時代的な限界もあった。ユリウス暦の制定後、約1500年が経過した1582年にグレゴリオ暦への改暦が行われたのはこのためである。
キリスト教への採用

キリスト教の多くの宗派が同暦を宗教暦として採用してからは、キリスト教の各行事を行う期日を定める基準としても使われるようになった。ただし、イエス・キリストの処刑と復活の記事は、新約聖書において太陰太陽暦であるユダヤ暦に基づいて記述されている[注釈 2] ため、復活祭の期日は、太陽暦であるユリウス暦のみでは決定できず、季節(太陽年)と月齢(太陰月)の双方に合わせる作業が必要となった。第一次ニケーア公会議325年に、「春分日であるユリウス暦3月21日の後の最初の満月の次の日曜日」を復活の主日とするように定めた。このように規定した結果、ユリウス暦の誤差が、復活祭の期日制定に直接影響することになった。確かに4世紀にはユリウス暦3月21日頃にあったと想定される実際の天文学的な春分日は、16世紀後半になると、10日も前のユリウス暦3月11日頃に到来するようになっていた。カトリック教会はこの事態を受けて、3月21日を天文学的春分日に出来る限り近づける暦法を制定[注釈 3] して改暦することとなった。これがグレゴリオ暦である。1582年2月24日[注釈 4]、グレゴリウス13世によってグレゴリオ暦が発布され、ユリウス暦1582年10月4日木曜日の翌日を以って、グレゴリオ暦同年10月15日金曜日とし、以降グレゴリオ暦を実施することとした。しかし、改暦はローマ教皇の独断専行であってニケーア公会議の決定に反するとして、西ヨーロッパでも、プロテスタント地域を中心に、グレゴリオ暦をすぐには採用しない地域が多くあった。それでも、天文学的優秀性から、プロテスタント地域でも徐々に広まっていき、最後まで残ったイギリスが1752年に採用したことで、西ヨーロッパの全ての地域が公式にグレゴリオ暦を使用するようになった。更に正教会圏や、他の宗教の地域でもグレゴリオ暦が使われるようになっており、今でもユリウス暦を用いているのは、正教会の一部等となっている(詳しくは後述。またグレゴリオ暦の記事を参照)
運用

紀元前45年にカエサルがこの暦法を導入した際に閏年は4年に1回と決められたが、直後の紀元前44年にカエサルが暗殺された後、誤って3年ごとに1回ずつ閏日が挿入された。この誤りを修正するため、ローマ皇帝アウグストゥスは、紀元前6年から紀元後7年までの13年間にわたって、3回分(紀元前5年、紀元前1年、紀元4年)の閏年を停止した[注釈 5]紀元8年からは正しく4年ごとに閏日を挿入している。

紀元前45年から紀元8年までの間に、どの年に閏年が置かれていたのかについては、詳しい記録が残っておらず、何度か論議になった。紀元前45年から3年ごとという学者もいれば、紀元前44年から3年ごとという学者もいた。1999年にローマ暦とエジプト暦の両方の日付が記載された紀元前24年当時の暦が発見され、それを基にした最新の説によると、紀元前45年から紀元16年までの閏年の置かれ方は次のとおりである。紀元前44年・紀元前41年・紀元前38年・紀元前35年・紀元前32年・紀元前29年・紀元前26年・紀元前23年・紀元前20年・紀元前17年・紀元前14年・紀元前11年・紀元前8年・(この間は閏年を置かず)・紀元8年・紀元12年・紀元16年(以後、4年ごと)。
紀元9年以降

紀元9年以降は以下のとおり、規則正しく運用されている。平年の1年の長さを365日とし、これを12の月に分割する。各月の長さは1月から順に次のとおり。

紀元9年以降のユリウス暦1月2月3月4月5月6月7月8月9月10月11月12月年間
(1)平年31日28日31日30日31日30日31日31日30日31日30日31日365日
(2)平年31日28日31日30日31日30日31日31日30日31日30日31日365日
(3)平年31日28日31日30日31日30日31日31日30日31日30日31日365日
(4)閏年31日29日31日30日31日30日31日31日30日31日30日31日366日

西暦年が4で割り切れる年を閏年とし、その年は、平年より1日多い366日とするために、2月の日数を1日増やして29日とする。

1月は季節でいうと冬至を過ぎた頃になる。
月名

現代日本語では各月は1月?12月の数字で表すことが多いが、古代ローマで使われていたローマ暦ではローマ神話やラテン語の数詞に由来する固有名があり、ユリウス暦でも月の名前はローマ暦のものを踏襲した。紀元前44年から、7月はユリウス・カエサルの名に因んで Julius ( Iulius ) と呼ぶようになり[2]、彼を継いだアウグストゥスが閏年の扱いを修正した際に、その名に因んで8月は Augustus となった[3]。その名称は語形変化を被りながらも現代でも英語フランス語などのヨーロッパ諸言語にそのまま引き継がれている。

尚、アウグストゥス以降も多くのローマ皇帝が月に自分の名をつけようとし、カリグラは9月を Germanicus [注釈 6]クラウディウスは3月を Claudius、ネロは4月を Neroneus [注釈 7]ドミティアヌスは10月を Domitianus と改名した。9月についてはアントニヌス・ピウスが Antoninus と改名したほか、タキトゥスが Tacitus と改名した。


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