ドイツ国の政治家ユリウス・シュトライヒャーJulius Streicher
生年月日 (1885-02-12) 1885年2月12日
出生地 ドイツ帝国
バイエルン王国 フラインハウゼン
ユリウス・シュトライヒャー
Julius Streicher
所属組織 ドイツ帝国陸軍
突撃隊
軍歴1914年 - 1918年
1934年 - 1945年
最終階級 陸軍少尉
突撃隊大将
除隊後戦争犯罪人として、ニュルンベルク裁判において絞首刑。
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ユリウス・シュトライヒャー(ドイツ語: Julius Streicher, 1885年2月12日 - 1946年10月16日)は、ドイツの政治家、ジャーナリスト。反ユダヤ主義新聞『シュテュルマー(Der Sturmer)』の発行人。
1922年に国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)に入党。ナチ党の初期の頃には主要幹部の一人であった。1923年から『シュテュルマー』紙を発行し、強烈な反ユダヤ主義報道を行った。1925年にニュルンベルクを管轄するフランケン大管区指導者となるが、第二次世界大戦中の1940年に空軍総司令官ヘルマン・ゲーリング国家元帥と対立を深めて解任された。戦後、ニュルンベルク裁判でユダヤ人虐殺を煽動した戦犯として起訴され、絞首刑判決を受けて刑死した。
略歴
ナチ党入党まで(ドイツ語版)に生まれる。父は教師のフリードリヒ・シュトライヒャー(Friedrich Streicher)。母はその妻アンナ(Anna)。一家はカトリック家庭で、シュトライヒャーは九子だった。父と同様に小学校の教師となり、1909年にニュルンベルク市に移住した[1]。彼は第一次世界大戦前はドイツ社会民主党(SPD)の党員だった[2]。
1913年にはパン屋の娘のクニグンデ・ロート(Kunigunde Roth)と最初の結婚をし二人の息子をもうけているが、1943年に妻と死別した。
第一次世界大戦時は陸軍に従軍。危険な任務を自ら進んで引き受け、戦功をたてた。少尉まで昇進し、一級鉄十字章を授与された[3]。
戦後、フランケン地方で反ユダヤ主義政党ドイツ社会主義党(ドイツ語版)を創設した[4]。 1922年10月にミュンヘンでアドルフ・ヒトラーの演説を聞いたシュトライヒャーはヒトラーの虜となった。シュトライヒャーはその場で聴衆をかき分けて進み、「自分の党に属する2000人の党員を贈り物として捧げたい」とヒトラーに申し出たといわれる[5]。 部下たちとともにナチ党に入党したシュトライヒャーは、ニュルンベルクに最初のナチ党支部を創設、同支部の支部長に就任した[1]。さらにシュトライヒャーのイニシアチブの下にフランケン地方の町々に13のナチ党支部が創設されていった[6]。ヒトラーへの強い忠誠心と北バイエルンの党建設の功績でヒトラーはシュトライヒャーに多大な信任を寄せていた。彼は北バイエルンにおけるヒトラーの総統代理に任じられていた[7]。1920年代前半のシュトライヒャーはナチス中枢の幹部であったといえる。しかしシュトライヒャーは政敵と争いを起こす事が多く、よく裁判沙汰になり、党に厄介事をもたらす事が珍しくはなかった。ポルノグラフィーに夢中になったり、常に犬鞭を持ち歩くといった奇妙な習慣のために評判の悪い人物であった[6]。 1923年5月には悪名高い反ユダヤ主義新聞『シュテュルマー(Der Sturmer)』(突撃兵ないし前衛の意)を創刊している。『シュテュルマー』は著名な歴史学者であったハインリヒ・フォン・トライチュケの言葉「ユダヤ人は我々ドイツ人の災いである」を毎号各ページの下段に掲げるほか、読者の感情を逆なでするような過激な見出しを用いて、たとえば猟奇的な性的犯罪などをでっちあげて掲載し、ユダヤ人を誹謗中傷した。あまりに下品で俗悪な内容に他の党幹部や国防軍の将校達、ナチス支持者の財界人などからさえ批判の声が上がっていた。戦時中の連合国のプロパガンダにも『シュテュルマー』紙はナチの悪徳ぶりを示す証拠として盛んに利用された。『シュテュルマー』の発行部数は1923年には2500部だったが、1935年には6万5000部になり、1937年には50万部に達している[8]。
ナチ党初期の活動
ミュンヘン一揆後のナチ党解散期