ユタ州の歴史
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ユタ州の歴史(ユタしゅうのれきし、英:History of Utah)では、主にアメリカ合衆国西部に位置するユタ州となった地域に住んだ先住民族からの人類の歴史と社会活動を概説する。
初期の人々グレートベースンの湿地にいるアメリカソリハシセイタカシギ(ベア川渡り鳥保護地)

先住民族は現在ユタ州となった地域に数千年間住んでいた。最も初期の生活の痕跡は考古学的考察によって約10,000年から12,000年前のものとされている。旧石器時代の人々は、魚、鳥および小型狩猟動物が豊富なグレートベースンの沼地や湿地近くに居住地を構えた。アメリカバイソンマンモスおよび地上性ナマケモノのような大型動物もそのような水資源に惹き付けられて来た。何世紀もの間に大型動物が姿を消し、バイソン、ミュールジカおよびレイヨウの個体数が多くなっていった。

紀元前8000年頃、大変多くの種族がユタ地域を使うようになった。砂漠古期人として知られるこれらの人々はグレートソルト湖沿岸地域の洞窟を住処にした。それ以前のユタの住人よりも採集生活に頼る度合いが増え、その主食はガマやピックルウィード、ビューロウィードおよびスゲのような塩分に強い植物で構成された。動物の肉はもっと贅沢なものだったと思われるが、網やアトラトル(投槍器)を使って水鳥、カモ、小動物およびレイヨウを狩っていた。人工物の中には植物繊維やウサギの皮で編まれた網、編み上げサンダル、狩りの杖および裂けた枝でできた動物の型がある。約3,500年前湖水の水面が上がり、砂漠古期人の人口は激減したと考えられている。グレートベースンはおよそ1,000年間、人が住んでいなかった可能性がある。

ユタのフリーモント川近くの場所から名付けられたフリーモント文化の人々は西暦およそ600年から1300年に現在のユタ州北部と西部、およびネバダ州アイダホ州コロラド州の一部に住んだ。これらの人々は、昔砂漠古期人が住んでいた水資源に近接する地域に住み、多くの者は種族間で関係を持った。しかし彼等が使った新技術ではっきり異なる人々として識別できる。フリーモントの技術には次のようなものがあった。

狩りのときの弓矢の使用

竪穴建物の建設

トウモロコシや恐らくは豆類およびスカッシュ(カボチャ)の栽培

日干しれんがや石で作った高床建築の穀物倉の建設

低温焼き土器の製作と装飾

宝石、および岩面陰刻絵文字のような岩絵など、美術の制作

古代プエブロ文化はアナサジとも呼ばれ、フリーモントに近接する地域を占めた。アメリカ合衆国南西部の現在はフォー・コーナーズ周辺地域を中心とする古代プエブロ文化はユタ州のサンフアン川地域を含んでいた。考古学者達はいつこの異なる文化が現れたかを議論しているが、文化の発展はフリーモント文化が現れる約500年前の西暦紀元頃からと考えられている。一般にはこの文化の人々の頂点は西暦1200年頃と受け止められている。古代プエブロ文化は建て方の進んだ竪穴建物やより手の込んだ日干しれんがや石細工の住居で知られている。この人々は優れた職人であり、トルコ石の宝石や精巧な土器を生産した。プエブロ文化は農業に基づいており、人々はトウモロコシ、豆類及びスカッシュの畑を作って栽培し、シチメンチョウを家畜化した。念入りな畑を造成し灌漑設備を作った。また、明らかに単に文化的かつ宗教的儀式のために工夫したキバと呼ばれる構造物を作った。

これら2つの文化は大まかに同時代のものであり、交易関係も作ったと見られている。考古学者達が初期のアメリカ南西部で共通の根を持っていると考える文化の特質を併せ持ってもいた。しかし、それぞれの文化はその歴史の大半で文化的に異なるもので有り続けた。これら2つの発達した文化は気候の変化と恐らくは西暦1200年頃の新しい民族の侵入によって大きな変化を受けたと考えられる。その後の2世紀にわたって、フリーモントと古代プエブロの人々は南西方向に動き、現在のアリゾナ州ニューメキシコ州およびメキシコ北部で新しい住処や農業用地を見出した。


モニュメント・バレーにあるナバホ族の故郷

西暦1200年頃、ショショーニ語を話す人々が西方からユタの領域に入った。彼等はカリフォルニア州南部に起源があり、海岸地域の人口圧迫のために砂漠の環境に移ってきた。松の実など木の根や種を活用する狩猟採集型生活様式を行う高地の民族だった。熟練した釣り人でもあり、土器を作り、また何らかの穀物を栽培した。ユタに到着した時には、種族的な組織がほとんど無い小さな家族集団で暮らしていた。ユタの地には4つのショショーニ系種族が住んだ。北部と北東部のショショーニ族、北西部のゴシュート族、中部と東部のユト族、及び南西部の南パイユート族だった。当初これらの種族間の紛争はほとんど無かったと考えられている。

1500年代初期、ユタ南東部のサンフアン川盆地にも新しい民族が現れた。グレートプレーンズから南西部に移動したアサバスカン語を話す大きな平原種族の一部であるディネあるいはナバホ族だった。ナバホ族に加えて、このアサバスカン語を話す種族として後にアパッチ族と呼ばれる民族がおり、リパン族、ジカリラ族およびメスカレロ・アパッチ族が含まれた。

アサバスカン語族は元々アメリカバイソンを追う狩猟民族であり、16世紀のスペイン人の証言では「ドッグ・ノマド」(犬を使う遊牧民)とされている。17世紀を通じてその活動範囲を広げ、前世紀にプエブロ人が放棄した地域を占有した。1620年代にスペイン人が最初に具体的に言及した「アパチュ・デ・ハバホ」はサンフアン川の東、サンタフェの北西のチャマ渓谷地帯の人々を指している。新参のナバホ族は概して南部にいる当時のプエブロ人と平和的な交易や文化的交流を行なったが、ショショーニ語族特に東部ユタや西部コロラドのユト族とは間歇的な戦争を行った。
ヨーロッパ人の探検「スペインによるアメリカ大陸の植民地化」も参照

1540年スペイン人コンキスタドール フランシスコ・バスケス・デ・コロナドシボラの伝説を探求する過程でユタの南部を横切った可能性がある。

スペイン帝国の2人のカトリック教会神父に率いられた集団、時にドミニゲス・エスカランテ遠征隊と呼ばれるが、1776年カリフォルニア海岸への道を見つけることを期待して、サンタフェを発った。この遠征隊は北のユタ湖まで旅し、先住民族に出遭った。

ジム・ブリッジャーなど毛皮を求める罠猟師が1800年代初期にユタの地域を探検した。プロボ市はそのような者の一人で1825年にこの地域を訪れたエティエンヌ・プロボストに因んで名付けられた。オグデン市もウィーバー渓谷で罠を仕掛けたハドソン湾会社の部隊指導者ピーター・スキーン・オグデンに因んで名付けられている。
モルモン教徒の入植ブーンビルのソルトフラッツ

モルモン開拓者として知られる末日聖徒イエス・キリスト教会の会員が1847年7月24日にソルトレイク渓谷に初めて到着した。当時ユタ州となる地域はまだメキシコの支配下にあった。米墨戦争の結果、1848年2月2日グアダルーペ・イダルゴ条約調印でこの土地はアメリカ合衆国の領土になった。この条約は3月10日アメリカ合衆国上院で批准された。
砂漠の開拓

モルモン教徒はソルトレイク渓谷に到着したときに、文字通り住むための場所を作らねばならなかった。灌漑設備を造り、農場を配置し、家、教会および学校を建てた。水を得ることが特別に重要だった。ブリガム・ヤングはほとんど即座に別の居住地を定めて所有権主張に動いた。グレートベースンで水資源があり、どうしても重要な自給作物を栽培するに足る長い生育期間を確保できる大きな地域を見つけることは難しかったので、衛星状の地域社会を形成し始めた。

1847年に最初の集団がソルトレイク渓谷に到着した後間もなく、北のバウンティフルに開拓地ができた。1848年、開拓者達は罠猟師マイルス・グッドイヤーから購入した土地、現在のオグデンに移動した。1849年、トゥーエルとプロボの町が設立された。この年にはまた、ユト族の酋長ワカラの招きに応じて、ユタ中部のサンピート渓谷に移動し、マンティの町を造った。新しいユタ準州の州都にすることを意図してフィルモアの町が1851年に設立された。1855年、西部先住民に向けた伝道の目的で、ユタ東中部にレミ砦、ラスベガスおよびエルクマウンテンの基地が設けられた。ザイオン国立公園

モルモン大隊から帰還した会員の経験は新しい地域社会を作ることにも重要だった。西部へ旅するとモルモンの兵士はコロラド、アリゾナおよび南部カリフォルニアの使える川や肥沃な渓谷を識別した。更にこれらの者が旅してソルトレイク渓谷の家族の元に戻ると、南部ネバダや南部ユタに移住した。モルモン大隊の上級士官ジェファーソン・ハントは積極的に開拓地および鉱物や他の資源を探した。


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