ユスティニアヌス1世
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ユスティニアヌス1世
Justinianus I (Iustinianus I )
東ローマ皇帝
ユスティニアヌス1世
在位527年8月1日 - 565年11月14日
別号執政官520年528年533年534年

全名フラウィウス・ペトルス・サッバティウス・ユスティニアヌス
出生483年5月11日
東ローマ帝国、ダルダニア属州(英語版)、タウレシオン
死去 (565-11-14) 565年11月14日(82歳没)(または13日)
東ローマ帝国コンスタンティノープル
埋葬 
東ローマ帝国コンスタンティノープル、聖使徒大聖堂
配偶者テオドラ
子女名前不詳の娘(嫡出子)[注釈 1]
テオドルス?(庶子?)[注釈 2]
ヨハンネス(養子、テオドラの連れ子)[注釈 3]
テオドラ(養女、テオドラの連れ子)[注釈 4]
(養子)ユスティヌス2世
王朝ユスティニアヌス王朝
父親(実父)サッバティウス
(養父、叔父)ユスティヌス1世
母親ウィギランティア
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ユスティニアヌス1世(ラテン語: Justinianus I, 482年もしくは483年5月11日 - 565年11月14日[1])は、東ローマ帝国ユスティニアヌス王朝の第2代皇帝(在位:527年 - 565年)。正式名は、フラウィウス・ペトルス・サッバティウス・ユスティニアヌス(Flavius Petrus Sabbatius Iustinianus[注釈 5])。
概要

後世「大帝」とも呼ばれたように、古代末期における最も重要な人物の一人である。その治世は東ローマ帝国史における画期的な時代をなし、当時の帝国の版図を押し広げた。これは、野心的だが最終的には失敗した「帝国の再建」(renovatio imperii)に特徴づけられる[2]。この野望はローマを含む西ローマ帝国の領土を部分的に回復したことに表される。しかしその栄光の時代も、543年黒死病(ユスティニアヌスのペスト(英語版))が終わりの印となった。帝国は領土的縮小の時代に入り、9世紀まで回復することはなかった。

ユスティニアヌスの遺産の重要な側面は、ローマ法を統合して書き直した『ローマ法大全』(Corpus Iuris Civilis)であり、これは多くの現代国家の大陸法の基礎であり続けている。彼の治世はまた初期ビザンティン文化の興隆にも印され、彼の建築事業はハギア・ソフィア大聖堂のような傑作を生みだし、これは800年以上にわたって東方正教会の中心となった。

東方正教会では聖者と見なされており、ルーテル教会の一部からも祝福されている[注釈 6]。反対に同時代のプロコピオスはユスティニアヌスを「残忍で強欲そして無能な統治者」として見ていた[3]

ユスティニアヌス1世の治世に関する主な史料は、歴史家プロコピオスが提供している。散逸したシリア語によるエフェソスのヨハネスの年代記は後代の年代記の史料となり、多くの付加的な詳細を知ることに貢献している。この2人の歴史家は、ユスティニアヌスと皇后テオドラに対して非常に辛辣である。また、プロコピオスは『秘史』(Anekdota)を著しており、ここではユスティニアヌスの宮廷における様々なスキャンダルが述べられている。ほかの史料としては、アガティアス (Agathias) 、メナンデル・プロテクトル (Menander Protector) 、ヨハネス・マララス (John Malalas) 、復活祭年代記 (Chronicon Paschale) 、マルケリヌス・コメス (Marcellinus Comes) 、トゥンヌナのウィクトル (Victor of Tunnuna) が挙げられる。
生涯
出生から即位出生地近くに建設したユスティニア・プリマの遺跡。

のちに皇帝ユスティニアヌス1世となるペトルス・サッバティウスは、483年にダルダニア州(英語版)タウレシウム(現マケドニア共和国スコピエ近傍)で農民サッバティウスの子として生まれた[4]ラテン語を話す彼の家族はトラキア系ローマ人またはイリュリア系ローマ人であると考えられている[5][6][7]。のちに彼が用いるコグノーメンの Iustinianus は叔父のユスティヌス1世の養子となったことを意味する[8]。彼の治世中に出身地から遠くない場所にユスティニア・プリマを建設している[9][10][11]。母ウィギランティアはユスティヌスの姉だった。

叔父のユスティヌスは近衛隊(Excubitores)に属しており[12]、ユスティニアヌスを養子とし、コンスタンティノポリスへ招き寄せて養育した[12]。このため、ユスティニアヌスは法学神学そしてローマ史について高い知識を持っていた[12]。彼はしばらく近衛隊に勤務していたが、経歴の詳細については分かっていない[12]。ユスティニアヌスと同時代の年代記編者ヨハネス・マララスはユスティニアヌスの外見について背が低く、色白で、巻き毛、丸顔の美男子だったと述べている。もう一人の同時代の年代記編者プロコピオスは(おそらく中傷だが)ユスティニアヌスの外見を暴君ドミティアヌスに喩えている[13]


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