ユサール
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出典検索?: "ユサール" ? ニュース ・ 書籍 ・ スカラー ・ CiNii ・ J-STAGE ・ NDL ・ dlib.jp ・ ジャパンサーチ ・ TWL(2016年7月)
フランス軍のユサール騎兵(1804年)

ユサール(フザール、ハサー、: Hussar、: Hussard、: Husar(en))は、近世軍隊における騎兵科の兵職の一つ。

15世紀ハンガリーにて発祥し、華麗なスタイルと勇猛さで名を馳せた。ポーランドではより華美を極めた有翼重騎兵(英語版)(フサリア、: Husaria、: Winged Hussar)として発展した。

日本語の訳語としては軽騎兵が当てられるが、広義の軽騎兵には竜騎兵槍騎兵なども含まれる場合がある。驃騎兵という訳語もある。
歴史
起源

1389年のコソボの戦いで敗北しハンガリーに逃れたセルビア人貴族が、ユサールの起源であるといわれている。その後ユサール騎兵隊として編成された彼らは、ハンガリー王マーチャーシュの治世の間オスマン帝国の精鋭騎兵と互角に戦い、その勇猛さを内外に知らしめた。王の死後、オスマン帝国の圧力に押される形で、ユサールの多くは傭兵としてオーストリアなどの周辺の国へ散らばっていった。
ポーランド騎兵(フサリア)詳細は「フサリア(英語版)」を参照クルシノの戦い(1610)における、あるフサリア隊の突撃。
敵の目前では極度に密集した隊形となる。ポーランドのフサリア隊(1604年)戦斧、弓矢、長剣、サーベル、盾を持つフサリア。
このフサリアは元帥(ヘトマン)の護衛兵。フサリアの甲冑を纏い、鞍上より指揮用ブズディガンを掲げ全軍へ総攻撃の命令を出す寸前の姿の
ヤン・ザモイスキ大元帥(王冠領大ヘトマン)の像
ポーランド・ザモシチ一般的なフサリアの甲冑

当時リトアニア大公国同君連合を組んでいたポーランド王国では、重騎兵はそれまでの中世式の槍騎兵に代わって、シュラフタ(ポーランド王国あるいはポーランド・リトアニア共和国貴族)からなるユサール槍騎兵を編成した。この騎兵の形は、ポーランド女王アンナに婿入りしポーランド王としてアンナ女王と王国を共同統治したステファン・バトーリ16世紀前半に祖国トランシルヴァニア公国から最初に持ち込んだと言われる。ポーランド語ではフサリア(Husaria)と呼ばれる。導入当初はもとの驃騎兵のままであり、兵科としては軽騎兵の一種であった。

その後祖国トランシルヴァニアのユサールが甲冑を脱ぎ捨て軽装になっていくのに対し、それ以前からヤン・タルノフスキの新式兵法が定着していたポーランドのフサリアたちは厚い真紅ベルベット(ビロード)の服の上に贅の限りをつくした装飾をほどこした金属製の甲冑をつけ、そのうえにテン毛皮を着込み、巨大な鳥の羽飾りを背負い(突撃時には風圧対策として馬の鞍に器具で固定した)、鮮やかな白と紅のポーランド軍バナーを体に纏って飾るという流麗ないでたちの、長で武装した独特な衝撃重騎兵軍団(有翼衝撃重騎兵)へと発展した。ユサール騎兵と呼ばれるもので「衝撃重騎兵」(Heavy shock cavalry)の兵科に入るのはこのポーランドのフサリアのみである。馬は大型の農耕馬ではなく中型の乗用馬を用い、中型ではあるが当時のヨーロッパの他の乗用馬に比して体格が大きめで高速で走る高価なアラブ馬が使用された。これはトルコ軍との戦いにより鹵獲したものを繁殖・品種改良したのであった。ヨーロッパにおける軍用アラブ馬の大規模飼育はポーランドで始まったのであり、フサリアはこのアラブ馬の国内普及によって完成した。王立飼育場では大量の予算投入によって最先端の品種改良が行なわれ、品種改良法は秘匿され、産出されるアラブ馬の種馬や仔馬が全国に販売され、一部は輸出された。18世紀ポーランド分割後になって新たにイギリスが台頭するまで、軍用馬の最先端技術はポーランドが独占し続けた。


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