ユグノー
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「ユグノー教徒」はこの項目へ転送されています。マイアベーア作曲のオペラについては「ユグノー教徒 (オペラ)」をご覧ください。

ユグノー(フランス語: Huguenot)は、フランスにおける改革派教会カルヴァン主義)またはカルヴァン派。フランス絶対王政の形成維持と崩壊の両方に活躍し、迫害された者は列強各国へ逃れて亡命先の経済を著しく発展させた。その活躍は、まずとびぬけてイギリスでみられたが、ドイツでは順当な規模であった。16-17世紀、ユグノーは上の地図に青く示されている南部西部に多くいた。しかし元来ポンティヴィポン=ラベといったブルターニュ地域圏にも定住し、迫害されてイギリスへ渡った者もあった。上に示した地図の青部には次のような町がある。フォントネー=ル=コントサン=ジャン=ダンジェリリュジニャンジョンザックミヨーネラックマレンヌプリヴァオーブナモントルーカオールカルヴィネニヨンアグドモンペリエフレジュス。また、オーヴェルニュ地域圏アングモアではユグノーが製紙業を発達させた。 ユグノーはスペイン帝国との貿易で栄え、当初はノワールムティエ島フランス領バスクを拠点とした(後にアンダルシアへ進出)。人物等については、関連項目と記事下部のカテゴリからのリンクが充実している。
語源

語源はスイスにおいてサヴォワ公に反対した「連合派 (Eidgenossen)」に由来するといわれ、民間信仰における化け物「ユゴン王」に結びつけられていた[1]

ドイツ語アイトゲノッセ(Eidgenosse、「盟友」)のフランス訛りエーグノもしくはエーニョ (Eignot) に、ジュネーヴの同盟党(ジュネーヴとスイス連邦の同盟を推進するプロテスタントの一派)の党首ブザンソン・ユーグ (Bezanson/Besancon Hugues) の姓を掛け合わせたものといわれており[要出典]、元々は蔑称であった。当時のプロテスタントは、カトリックなどから蔑視されており、同様な蔑称にネーデルラントゴイセンイングランドピューリタンなどがある。
歴史
フランス宗教改革の起こり

デジデリウス・エラスムスジャック・ルフェーヴル・デタープルの影響が大きいといわれる。しかし、彼らはローマ・カトリック教会の側であり続けた。

フランスの福音主義の最初期のものはルフェーブル・デタープルによるパウロ書簡注解(1512年)やフランス語訳新約聖書(1523年)があげられる。しかしパリ大学の神学者やパリ高等法院から弾圧され、デタープルはストラスブールへ亡命するなど、改革運動に迫害が加えられた。

1518年-1519年マルティン・ルターの書物によって宗教改革がフランスに伝えられ、当初はソルボンヌの学者たちもルターに共感していたが、ローマの教会がルターを非難したため、1521年以降は、プロテスタント信仰を持つ者は、火あぶりか亡命の他に選ぶ道が無くなった。

フランスで最初の殉教者は1523年8月8日に生きたまま焼かれたアウグスティヌス会修道士ジャン・ヴァリエールであった[2]1546年10月7日ピエール・ルクレール牧師と礼拝の出席者は生きたまま火あぶりにされた[3]

1520年代から1540年代のフランス宗教改革はルターの影響を受けていたが、次第にジャン・カルヴァンの影響が強くなる。
檄文事件詳細は「檄文事件」を参照

改革派は影響力を増大させ、1533年にはパリ大学総長がルターに依拠して演説し、1534年にはカトリックのミサ聖祭の中止を訴える檄文事件が起こった。

国王フランソワ1世は姉のマルグリットが人文主義や改革運動に好意的であったためか、当初改革派に理解を示していたが、檄文事件を境に弾圧に回り、パリ高等法院に異端審問委員会を設置した。さらに後継者アンリ2世1547年に特設異端審問法廷を設け、弾圧を強化した。
改革派教会の建設

1550年代になるとカルヴァンの指導のもとで改革派は組織化が図られた。フランス最初の改革派教会は1546年に建設された。また、ジュネーヴからは160人以上の牧師が派遣された[4]

1559年には地下で第1回全国改革派教会会議が開かれ、フランス信条が告白され、信仰箇条や教会の規則を定めて一応の組織化を果たした。
貴族の参加

このころからブルボン家やコンデ親王家をはじめとする貴族が改革派へ参加した。とくにブルボン家などの大貴族層は、政敵であるカトリックの大貴族ギーズ家への対抗という政治的意図から改宗を選んだと考えられる。

アンリ2世の死後は、その妃で実権を握ったカトリーヌ・ド・メディシスが政治的駆け引きに改革派とカトリック派を利用しようとし、王家と改革派・カトリック派の三分構造が際だった。
ユグノー戦争詳細は「ユグノー戦争」を参照

1560年の改革派によるギーズ家の影響排除を狙った「アンボワーズの陰謀」事件や、1562年に起こったカトリック派によるヴァシーでのユグノー虐殺など不穏な事件が相次ぎ、ヴァシーの虐殺を契機として最初の武力衝突が起こった。以後1598年ナントの勅令公布までの間フランスは断続的な内戦状態に陥った(ユグノー戦争)。

1571年には改革派のコリニー提督が宮廷で影響力を増大させ、新教国と連携してフランスを八十年戦争に介入させようとしたが、1572年ユグノーに対する虐殺事件(サン・バルテルミの虐殺)に巻き込まれて殺された。
サン・バルテルミの虐殺サン・バルテルミの虐殺詳細は「サン・バルテルミの虐殺」を参照

ブルボン家のナヴァル王アンリと王妹マルグリットの結婚式に参列するため、パリに集まった改革派貴族を、1572年のサン・バルテルミの祝日(8月24日)にカトリック派が襲った。影響は全フランスに広がり、各地で改革派に対する襲撃が相次いだ。


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