ヤーコプ・ベーメ
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ヤコブ・ベーメ

ヤコブ・ベーメ(Jakob Bohme,1575年 - 1624年11月17日)は、ドイツの神秘主義者である。ドイツ語で主に著述した最初の思想家でもあり、信奉者から付けられた「フィロソフス・テウトニクス」(ドイツの哲人)という異名でも知られる。ルター派教義を背景とし、パラケルススら新プラトン主義に影響を受けた独特の自然把握と「神の自己産出」という哲学史上稀な概念の展開は、敬虔主義やドイツ観念論といった近世のドイツ思想だけでなく、近代の神秘学にも影響を与えている。

主著は『アウローラ』、『シグナトゥーラ・レールム』、『大いなる神秘』、『キリストへの道』。
生涯
出生(アウローラ脱稿前)

1575年、北ドイツ・オーバーラウジッツナイセ川流域の都市ゲルリッツの近郊、アルト・ザイデンベルク(Alt Seidenberg)に生まれる。ここは現在、ポーランド領スリクフ(Sulikow)の一部になっている[1]。靴職人としての修養を終えたベーメは、1599年以降ゲルリッツで靴職人として働き、家庭を設ける。

ベーメが著述を始めた時期は確定できないが、1612年最初の著作『アウローラ』が完成する。ベーメはのちに書簡中で、この著述の根底にそれ以前の神秘体験があり、「12年もの間それ(=神秘体験)に関わった」[2] と述べる。正規の哲学教育のみならずギムナジウムでの中等教育をも受けていない靴職人にとってこの作業が困難を極めたことは容易に想像される。ベーメ自身もまた、この最初の著作が文体と内容の両方に渡って晦渋であることを認めているほどである。

しかし同時にこの著作にはベーメの根本的思想の萌芽が現れていることも広く認められている。ベーメは上掲の書簡において『アウローラ』について「一冊より多くの書物、一つ以上の哲学が、しかもつねにより深められて生み出される」とも語っている。自己の神秘体験をつづった『アウローラ』によって一度は異端として非難され、休筆するものの、その後著述を再開する。
アウローラ脱稿後

ベーメははじめ己の体験の覚書として『アウローラ』を著し、公開する意図はなかった。しかし友人に乞われてその手稿を貸し出すうちに、これを筆耕するものも出始め、『アウローラ』はベーメの交友範囲を越えて、ゲルリッツ市民に知られるようになった。神秘体験という個人的な幻視と、素朴なキリスト教信仰の合致から生まれた自然人間の関係についてのこの著述は、しかし当時ゲルリッツの監督牧師であったグレゴール・リヒターにはルター派正統教義をおびやかすものとして認識された。リヒターは説教壇からベーメを異端思想の持ち主として非難し、これに呼応する市民は公然とベーメの自邸に攻撃をするなどし、ベーメの平穏な生活は脅かされた。この結果、ベーメが著述を以後しないこと、リヒターは教会においてベーメを非難することをやめるとの妥協が市の当局の仲裁によって定まり、ベーメは著述を控えることとなった。

一方でベーメの『アウローラ』を好意的に受容する者も一定数存在した。その中には貴族階級の読書人もあり、ベーメの精神的支援者となるばかりでなく、ベーメに錬金術など当時の新プラトン主義的自然哲学思想を媒介するとともに、読書の機会を与えた。ベーメの著作に散見するラテン語はこのような友人たちからベーメが学んだものがほとんどであるが、パラケルススの著述については、これを直接読んだとベーメは証言しており、錬金術用語を『シグナトゥーラ・レールム』・『大いなる神秘』をはじめとする後の著作では大いに用いている。またこの読書はベーメに遅い年齢に達してではあるが、自己の著述を反省し言葉を練る助けとなった。
シグナトゥーラ・レールム脱稿後

ベーメは和解の協約を守り新たな著述を行うことはなかったが、その後もリヒターは教会での攻撃をやめず、市民を扇動してベーメを悩ませた。また友人たちもベーメに『アウローラ』に続く著作を所望した。ベーメは自らの沈黙が平和をもたらさぬことを知るばかりでなく、この期間に熟成していった自己の思想をむしろ積極的に表明することが自己の使命であると確信するに到る。1618年ベーメは著述を再開し、1624年の死に至るまでの6年間に『シグナトゥーラ・レールム』を始めとする幾つかの大著、および付随する小論文、信奉者宛の書簡などで、精力的にその思想を語りだしていく。
キリストへの道脱稿後

幾つかの小論を集めて出版を勧めるものがあり1623年に『キリストへの道』を出版する。この著作は『アウローラ』同様、激しい議論と敵意の的となり、ベーメはその対応に追われて本格的な著述をする暇を取れないばかりか、ゲルリッツに家族を残してひとり退去し、ドレスデンに一時滞在することになる。しばらくドレスデンに滞在した後、ゲルリッツに戻ったベーメは病を得て没した。
思想
三つの大きな波

ベーメは生涯、自身の自覚としてはルター派の信仰に忠実でありつづけた。ベーメの思想の第一の背景としてはベーメが教会を通して受けた宗教教育が挙げられる。しばしば自然哲学として解釈されるその思想も、ベーメの意図としては晩年の著作の題名が示すように『キリストへの道』として語りだされている。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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