ヤーコフ・プロタザノフ
Яков Протазанов
本名ヤーコフ・アレクサンドロヴィチ・プロタザノフ
(Яков Александрович Протазанов)
生年月日 (1881-01-23) 1881年1月23日
没年月日 (1945-08-08) 1945年8月8日(64歳没)
出生地 ロシア帝国(現 ロシア)
モスクワ
死没地 ソビエト連邦(現 ロシア)
モスクワ
国籍 ロシア帝国 ⇒
ソビエト連邦
職業映画監督、脚本家、俳優、映画プロデューサー
ジャンルサイレント映画、トーキー
活動期間1909年 - 1943年
活動内容1909年 映画を監督する
1920年 渡仏
1923年 ソ連に戻る
主な作品
『スペードの女王』
『ペェター・セルギー
ヤーコフ・アレクサンドロヴィチ・プロタザノフ(ロシア語: Яков Александрович Протазанов, 1881年1月23日 - 1945年8月8日)は、ロシア帝国とソビエト連邦(いずれも現ロシア)の映画監督、脚本家、俳優、ソビエト連邦の映画プロデューサーである。 1881年(明治14年)1月23日、ロシア帝国(現在のロシア)のモスクワに生まれる。 1900年(明治33年)、商業学校を卒業し、商店で働き始める。資金を貯めて、1904年(明治37年) - 1906年(明治39年)に渡仏した。帰国すると、モスクワの映画配給・製作会社「グロリア」に助手として勤めた。『ペェター・セルギー
人物・来歴
1910年(明治33年)、パウリ・ティマンと契約する。ティマンは、ウラジミール・ガルディン監督とともにサイレント映画を製作する人物である。ティマンの会社はすでに実績のある会社であったが、1914年(大正3年)には、戦争のために崩壊してしまい、プロタザノフは、ヨシフ・エルモリエフに雇われた。エルモリエフの会社で、『スペードの女王』(1916年)、『ペェター・セルギー』(1917年)を監督し、プロタザノフの代表作となった。1917年(大正8年)、十月革命を逃れてクリミヤ半島のヤルタへと移住するが、その後、映画産業は国営化され、多くがフランスへと移っていった。
1920年(大正9年)から、フランスのパテとゴーモンで働き、ヴァイマル共和国(現在のドイツ)でも仕事をした。1923年(大正12年)、すでにソビエト連邦となっていた祖国に帰る決意をした。祖国では、『アエリータ』(1924年)、『三百万裁判』(1926年)などを撮った。1937年(昭和12年)、『持参金のない娘』がフランスでパリの金メダルを受賞した。
1943年(昭和18年)に引退した。1945年(昭和20年)8月8日、ソビエト連邦(現在のロシア)の首都モスクワで死去した。満64歳没。イワン・モジューヒン、イゴール・イリンスキー、ミハイル・ジャロフら、スター俳優を発掘した。 en:Yakov Protazanov filmography
おもなフィルモグラフィ
すべて監督作
『バフチサライの泉』 Бахчисарайский фонтан : 1909年
Уход великого старца : 1912年
『スペードの女王』 Пиковая дама : 1916年
『歓喜する悪魔』 Сатана ликующий : 1917年
『ペェター・セルギー』 Отец Сергий : 1917年
『アエリータ』 Аэлита : 1924年
『トルジョクから来た仕立屋』 Закройщик из Торжка : 1925年
Его призыв : 1925年
『三百万裁判』 Процесс о трех миллионах : 1926年
Человек из ресторана : 1927年
Сорок первый : 1927年
Дон Диего и Пелагея : 1928年
『白鷹』 Сорок первый : 1928年
『階級と人々』 Чины и люди : 共同監督ミハイル・ドレル、1929年
『聖ヨルゲンの日』 Праздник Святого Йоргена : 1930年
『トミー』 Томми : 1931年
『あやつり人形』 Марионетки : 1934年
О странностях любви : 1936年
『持参金のない娘』 Бесприданница : 1937年
Салават Юлаев : 1941年
Насреддин в Бухаре : 1943年
関連事項
パウリ・ティマン (fr:Paul Timan)
ウラジミール・ガルディン (en:Vladimir Gardin)
ヨシフ・エルモリエフ (fr:Iossif Ermoliev)
註
外部リンク
Yakov Protazanov - IMDb(英語)