ヤン・マテイコ
Jan Matejko
自画像 (1892年)
誕生日 (1838-06-24) 1838年6月24日
出生地クラクフ
死没年1893年11月1日(1893-11-01)(55歳)
死没地クラクフ
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ヤン・マテイコ (ポーランド語: Jan Alojzy Matejko、Jan Mateykoとも。1838年6月24日 - 1893年11月1日)は、ポーランドの画家。ポーランド史に残る政治・軍事の出来事を主題にしたことで知られる[1][2]。彼の最も有名な作品群には、油彩の『グルンヴァルトの戦い』のような多くの戦闘や、宮廷の光景を描いた作品、歴代ポーランド国王の肖像などが含まれる[1][2]。
生涯ヤンが 1853年に描いた、フランチシェクと3人の子の絵画。
ポーランド分割のさなか、オーストリアによって併合されていたポーランド領の一部自由都市クラクフで、マテイコは生まれた。父フランチシェク (Franciszek Ksawery Matejko) はフラデツ・クラーロヴェーにルーツを持つ、カトリックのチェコ人だった。フランチシェクは家庭教師として働き、最初はコシチェルニキ
(ポーランド語版)のWodzicki家の元で音楽教師をした。クラクフへ移ってから、彼はドイツ人とポーランド人の両親を持つプロテスタントの女性、ヨアンナ・ロスベルク (Joanna Rosberg) と結婚した。ヤンは11人兄弟の9番目の子であった。ヤンはカトリック教徒として育てられた。1846年に母が亡くなると、マテイコと兄弟たちは叔母アンナ・ザモイスカが世話をした。幼年時代のマテイコは、他の教科で非常に悪戦苦闘していたにもかかわらず、進級に次ぐ進級を許されるほどの突出した芸術的天性を見せていた。少年のマテイコは外国語を身につけることができず、母国語であるポーランド語ですらチェコ語の訛りのせいで、巧みとは言えなかった。
幼いマテイコは、1846年のクラクフ反乱と1848年のオーストリア軍によるクラクフ包囲戦を目撃している。2つの事件は自由都市クラクフの終焉を意味した。彼の2人の兄、次兄エドムントと三兄ジグムントは兵士として、2度の事件においてポーランド側のユゼフ・ベム 将軍のもとで戦い、ジグムントが亡くなっている。
彼は聖アンナ校 (en:Bart?omiej Nowodworski High School) へ入学するが、1851年に成績が悪いせいで退学した。それにもかかわらず、彼の飛び抜けた才能のために1852年からクラクフ美術学校(当時はヤギェウォ大学の芸術専門学校。現在はヤン・マテイコ美術学校)で学ぶことになり、ヴォイチェフ・コルネリ・スタットレル (en:Wojciech Korneli Stattler) とヴワディスワフ・ウシュチュキェヴィチ (W?adys?aw ?uszczkiewicz) から指導を受けた。
この頃、彼は芸術友好協会に歴史上の事件を題材とした絵を発表し始めた。
政府から奨学金を受け、1858年にミュンヘン美術アカデミーで歴史画家ヘルマン・アンシュッツ (Hermann Anschutz) の元で学んだ後(ここでマテイコは男性の裸体像を描いた作品で銅メダルを獲得している)、1859年から1860年にかけウィーン美術アカデミーで学び、彼はクラクフへ帰郷した。以降彼は生涯をクラクフで過ごした。マテイコが1879に描いた4人の我が子の絵。左からイェジー、タデウシュ、ヘレナ、ベアタ。
1863年の一月蜂起の間、マテイコは健康が優れなかったことから蜂起に加わることはできなかった。彼は金銭上の援助を与えられ、Goszczaにある反対分子収容所へ鉄砲・火薬類の密輸をした。1864年にテオドラ・ギェプトフスカ (Teodor? Giebu?towsk?) と結婚し、ベアタ、ヘレナ、タデウシュ、イェジーの4子をもうけた。同じ年、彼はクラクフ科学協会のメンバーとなった。
この頃、マテイコは国際的な評価を獲得し始めた。文字通りの「貧窮芸術家」であった若い時期の1865年、作品『スカルガの説教 』が、パリのサロンで金賞を受賞したのである。この絵はその結果として、10,000ギルダーでマウリツィ・ポトツキ伯 (Maurycy Potocki) が買い上げた。