ヤン・マテイコ美術学校
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クラクフ・ヤン・マテイコ
美術アカデミーAkademia Sztuk Pi?knych
im. Jana Matejki w Krakowie
マテイコ広場に面した本館(クラクフ
種別国立
設立年1818年 (206年前) (1818)
学長Andrzej Bednarczyk[注釈 1]
教員数321名(2022年3月時点)
職員数149名(2022年3月時点)
学生総数972名(2021/2022年度)
所在地ポーランド
クラクフマテイコ広場 13。31-157
キャンパス都市
公式サイト ⇒www.asp.krakow.pl

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ヤン・マテイコ美術アカデミー(ヤン・マテイコびじゅつアカデミー、略称ASP : Akademia Sztuk Pi?knych im. Jana Matejki w Krakowie[2][出典無効])(アカデミア・シュトゥク・ピェンクヌフ・フ・クラコヴィエ・イミェニョ・ヤナ・マテイキ)は、ポーランドクラクフの都心部にある高等教育機関。1818年に創立され1873年に完全自主権を得た、ポーランドで最も歴史のある美術学校である。旧称はクラクフ美学校。

5年および6年の修士課程をもつ国立大学であり、2007年時点の教授と助教授は94名、博士147名を数えた。〈クラクフ美学校〉と呼ばれた頃のアカデミー(19世紀、銅版画)
沿革プランティ公園にあるヤン・マテイコの記念碑(クラクフ旧市街バシュトヴァ通り、2013年撮影)

本学は当初の1818年から1873年までヤギェウォ大学文学部の一部であり、〈絵画学校〉(: Szko?a Rysunku i Malarstwa シュコワ・ルスンク・イ・マラルストファ )と呼ばれていた。教師のアントニ・ブロドフスキ(英語版)、フランチシェク・クサヴェル・ランピ(英語版)は、立憲王国時代のポーランドにおける世界的な風景画家および肖像画家でポーランド新古典主義者であり、卒業生で知名度による筆頭はヴォイチェフ・コルネリ・スタトレル(英語版)(1800年-1875年)で、のちにヤン・マテイコの師となった。ほかにポーランドロマン主義時代の馬術の達人でもあったピョートル・ミハウォフスキ(1800年-1855年)などが在籍した[3]

1873年にASPは高等教育機関として独立し〈美術アカデミー〉(: Szko?a Sztuk Pi?knych シュコワ・シュトゥク・ピェンクヌフ )と改称した。新しく初代学長にヤン・マテイコを迎え、19世紀ポーランドで群を抜いて優れた風景画家であったヤン・ネポムツェン・グウォヴァツキ(英語版)(1802年-1847年)[4]ウィーン美術アカデミーの会員フロリアン・ツンク(英語版)(1838年-1912年)、アレクサンデル・グルグレフスキ(英語版)(1833年-1879年)、レオポルド・ロフラー(英語版)(1830年頃-1898年)など当代の著名な画家を教授として招いた。1879年、現・マテイコ広場に本館を建設することになり、設計にマチェイ・モラチェフスキ(英語版)(1840年-1928年)による新古典主義に基づく計画が選出された。1893年から1895年に学長を務めたウワディスワフ・ウシュチキェヴィチ(英語版)(生1828年-没1900年)[注釈 2]は、クラクフの記念建築物管理委員会の一員であり幅広い教育的背景を備えた人物である[5]

1893年にマテイコが死去したのち、1895年にASPの次期学長にユリアン・ファワトが選任され1909年までこれを務めた。ファワトは現代西方美術哲学に造詣の深い指導者らを雇い、アカデミーを新しい方向へと導いた。とりわけ、テオドル・アクセントヴィチ(英語版)、「ポーランド象徴主義(英語版)」(ムウォダ・ポルスカ)と「ポーランド芸術界における近代主義の父」と呼ばれたヤチェク・マルチェフスキのほか、ヤン・スタニスワフスキ、レオン・ヴチュウコフスキ(英語版)、コンスタントゥ・ラシチカ(英語版)、ユゼフ・メホフェル、あるいはヨーロッパにおいて初めて画家・詩人から内装設計まで全ての分野で活動した作家スタニスワフ・ヴィスピャンスキや、ヴォイチェフ・ヴァイス、ユゼフ・パンキェヴィチ(英語版)らが著名である[6][7]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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