ヤン・ウルリッヒ
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ヤン・ウルリッヒ
Jan Ullrich



基本情報
本名ヤン・ウルリッヒ
Jan Ullrich
愛称Ulle(ウレ)
Der Kaiser(皇帝)
生年月日 (1973-12-02) 1973年12月2日(50歳)
国籍 東ドイツ ドイツ
身長183cm
体重73kg
選手情報
所属引退
分野ロードレース
役割選手
特徴オールラウンダー
アマチュア経歴
1987
1987-1989
1991
1992-1994SGディナモ・ロストック
SCディナモ・ベルリン
SCベルリン
RGハンブルク
プロ経歴
1995-2002
2003

2004-2006チーム・テレコム
チーム・コースト
チーム・ビアンキ
T-モバイル
主要レース勝利
ツール・ド・フランス 総合優勝 (1997)
ツール・ド・フランス 通算7勝
ブエルタ・ア・エスパーニャ 総合優勝 (1999)
ブエルタ・ア・エスパーニャ 通算2勝
ジロ・デ・イタリア 通算1勝
シドニーオリンピック・個人ロードレース (2000)
世界選手権・個人タイムトライアル (1999,2001)
ツール・ド・スイス 総合優勝 (2004,2006)
HEWサイクラシックス (1997)

獲得メダル

男子 自転車競技
オリンピック
2000 シドニー個人ロードレース
銀2000 シドニー個人タイムトライアル
世界選手権自転車競技大会
1993 オスロアマ・個人ロードレース
1999 トレヴィーゾ個人ロードタイムトライアル
2001 リスボン個人ロードタイムトライアル


最終更新日
2012年2月10日

ヤン・ウルリッヒ(Jan Ullrich、1973年12月2日 - )は、ドイツロストック出身の元自転車プロロードレース選手。1995年テレコムでプロデビュー。2006年引退。

ツール・ド・フランスでは総合優勝1回、2位5回を記録。さらにブエルタ・ア・エスパーニャ総合優勝1回、世界選手権個人タイムトライアル優勝2回、2000年シドニーオリンピックの個人ロードレース金メダルなど数々のタイトルを獲得したが、ドーピング疑惑により引退に追い込まれた。
経歴

幼少の頃からその優れた資質が認められ、 東ドイツのスポーツ育成システムによる教育を受け、1986年には東ベルリンのSCディナモ体育学校に進んだ。しかし1989年のベルリンの壁崩壊に伴う東西ドイツの統一によって学校は閉鎖されることが決定。これに伴いコーチのペーター・ベッカーに連れられハンブルクに移住。アマチュアチームに所属して自転車競技の経験を積んでいくことになる。

1993年にノルウェーオスロで開かれた世界選手権でアマチュア部門の個人ロードレースで優勝。その他数々のレースでも活躍し、94年にプロに転向した。

しかし95年にドイツ選手権の個人タイムトライアルで優勝を果たしたこと以外は、特に目立った活躍はなく、プロ転向後から約1年半の間は大きな注目を集めることもなかった。 だが1996年に初参加したツール・ド・フランス第20ステージのタイムトライアルで優勝。総合でもチームメイトのビャルヌ・リースに次ぐ2位に入り、新人賞を獲得。周囲を驚かせた。

1997年のツール・ド・フランスではステージ2勝をあげ、23歳の若さでドイツ人としては初の総合優勝を果たしてマイヨ・ジョーヌを獲得(新人賞も同時獲得)。この偉業に対してフランスのスポーツ新聞・レキップ紙は ≪ Voila le Patron ≫(まさにボスそのもの)という言葉で賞賛。またドイツの「年間最優秀スポーツ人賞」にも選ばれた。この年にはHEWサイクラシックスでも優勝を果たしている。

1998年はドイツ選手権のロードレース部門で優勝し、ツール・ド・フランスにおいても中盤でトップに立ち2連覇が濃厚だと思われていたが、第15ステージのガリビエ峠で悪天候による寒波にもかかわらず防寒具を着用せずに下り坂での追撃を強行した上[1]補給食の摂取ミスでハンガーノックに陥ったことで急激にペースダウン。このチャンスを逃さずアタックをかけたマルコ・パンターニに逆転を許してしまい、総合では2位に甘んじてしまったが、最終的にはステージ3勝をあげて三年連続の新人賞を獲得する活躍を見せた。

1999年はシーズン半ばのドイツ・ツアーで落車して膝を負傷。これがたたって結局ツール・ド・フランスには出場できなかった。しかし終盤に出場したブエルタ・ア・エスパーニャではステージ2勝をあげて総合優勝を果たしたほか、世界選手権の個人タイムトライアルでも優勝してアルカンシエルを獲得した。

2000年のツール・ド・フランスでは1999年優勝者のランス・アームストロングとの対決が注目されたが、ランスの前に歯が立たず、総合2位となった。しかしシドニーオリンピックではその鬱憤を晴らすように、個人ロードレースで金メダル、個人タイムトライアルで銀メダルを獲得する大活躍を見せた。

翌2001年は ツール・ド・フランスでまたもランスの後塵を拝し総合2位。しかしドイツ選手権のロードレースで2度目の優勝を果たしたほか、世界選手権の個人タイムトライアルでも再び優勝し、世界有数のトップ選手であることを示した。

しかし2002年は1月に膝を故障し、満足にレースにも出られない状況が続き、5月に飲酒運転で器物損壊を犯した挙げ句、そのまま逃走し免停という不祥事を起こす。さらに6月にUCIの抜き打ちの薬物検査で血液からアンフェタミンが検出された[2] ことで、6か月間の競技停止処分を受けてしまい、長年所属してきたチーム・テレコムからも契約解除という憂き目にあう。

2003年にやむを得ずチーム・コーストに加入したものの、ツール・ド・フランス直前に運営資金不足によってスポンサーのコーストが撤退し急遽ビアンキがスポンサーにかわるドタバタが起こるなど、不運が続いたが、この年は尻上がりに調子をあげ、第12ステージの個人タイムトライアルでライバルのランス・アームストロングに1分以上の差をつけて優勝。第14ステージ終了後には15秒差まで迫り、かつてないほどランスを追い詰めたが、第15ステージでランスに引き離され、またしても総合2位となった。

2004年はテレコムチームの後継である「T-モバイル」チームに復帰。ツール・ド・フランスに向けた調整のために参加したツール・ド・スイスで総合優勝し、「今年こそは」という期待を感じさせるも本番では、ランスはおろか総合2位に入ったチームメイトのアンドレアス・クレーデンにまで遅れをとり、過去最低の成績となる総合4位に終り、翌2005年のツール・ド・フランスでもランスに屈し、総合3位となった。

そして2006年ジロ・デ・イタリアで1勝。ツール・ド・スイスでも2回目の総合優勝を果たし、この年のジロ・デ・イタリア 総合優勝者のイヴァン・バッソとともにランス引退後のツール・ド・フランス優勝候補の最右翼として見られていた。


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