ヤングブラッズ_(1960年代のバンド)
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ヤングブラッズ
出身地

ニューヨーク州 ニューヨーク
ジャンルフォークロック
ロックンロール
ブルースロック
ジャズロック
リズム・アンド・ブルース
ブルーグラス
カントリーロック
活動期間1965年 - 1972年
レーベルRCA

メンバージェシ・コリン・ヤング
ジェリー・コービット
バナナ(ロウエル・レヴェンジャー)
ジョー・バウアー
1969年初頭頃のヤングブラッズ

ヤングブラッズ(The Youngbloods)は、1960年代から1970年代初頭にかけて活動したアメリカ合衆国バンドフォーク・ロック・バンドである。1965年ニューヨーク州ニューヨーク市で結成されグリニッジ・ヴィレッジを中心に活動。1969年に拠点をカリフォルニア州に移して活動を続け、1972年に解散した。

ディノ・ヴァレンティ(英語版)の楽曲「ゲット・トゥゲザー」を取り上げ、1969年にビルボードのシングル盤チャート最高5位を記録するヒット曲にした。



メンバー

ジェシ・コリン・ヤング(ペリー・ミラー)(Jesse Colin Young/本名Perry Miller [2]
1941年10月22日生、ニューヨーク州クイーンズ区出身) ボーカル、ベース・ギター、ギター

ジェリー・コービット(Jerry Corbitt/本名Jerry Byron Corbitt[3] 1943年1月7日ー2014年8月3日、ジョージア州ティフト出身) ボーカル、リード・ギター ※1965-69年在籍

バナナ(ロウエル・レヴェンジャー3世)(Banana/本名Lowell LevingerV [4] 1946年生、マサチューセッツ州ケンブリッジ出身) キーボード、ギター

ジョー・バウアー (Joe Bauer [5] 1941年9月26日-1983年11月日、テネシー州メンフィス出身) ドラムス

マイケル・ケイン (Michael Kane) ベース・ギター ※1971-72年在籍

デヴィッド・パーパー (David Perper) ドラムス ※1984-85年在籍

スコット・ロ?レンス (Scott Lawrence) キーボード ※1984-85年在籍

来歴

ジェシ・コリン・ヤング(Jesse Colin Young、本名Perry Miller)はニューヨーク州の出身で、会計士の父親とヴァイオリニストの母親を持ち、幼少からクラシック音楽に親しんだ。彼は遊学からボストンのフィリップス・アカデミーに進学したが、フォークリバイバル運動の「洗礼」を受けて熱心な音楽活動を始め、学校を中途退学してニューヨークに戻り、フォーク・クラブやコーヒーハウスで活動した。

1964年4月、ヤングはキャピトル・レコードからボビー・スコット(Bobby Scott)のプロデュースによるデビュー・アルバム『ザ・ソウル・オブ・ア・シティ・ボーイ(The Soul of a City Boy)』[1]を発表した。当時のグリニッジ・ヴィレッジでは、雑多な交流から生まれたセッションや即席のフォーク・グループがステージに立ち、デヴィッド・グリスマン(David Grisman・英語版)が結成したブルーグラスジャグ・バンドには様々なミュージシャンが参加して演奏を繰り広げていた[注釈 1]。ヤングはデビューの前後に、ジェリー・コービット(Jerry Corbitt、本名Jerry Byron Corbitt)と知り合った。意気投合した二人はカナダのフォーク・クラブなどを回る遠征を行ない、この旅行中にバンドの結成を思い立った。

ヤングは帰国後、2作目のアルバムの制作の為にマーキュリー・レコード(Mercury Records・英語版)と契約した。彼が結んだ契約の付帯項目では、アルバムの制作とは別枠でスタジオをバンドセッションのリハーサルとデモ・テープ制作に使う時間枠が確保され、ジェリー・ロス(Jerry Ross)が全ての作品のプロデューサーに指名されていた。デモ・テープのセッションには、のちにラヴィン・スプーンフルを結成したジョン・セバスチャンがハーモニカでゲスト参加した。また4人前後のメンバー候補の中から、コービットのジャグ・バンド仲間で、ボストンのセミ・プロバンド[注釈 2]を辞め将来の模索にニューヨークへ移住してジャズ・バンドに臨時に雇われていたバナナ(Banana、本名Lowell Levinger III)と、その友人で社交ダンスホール専属の無名のジャズ・バンドにいたジョー・バウアー(Joe Bauer)という、それぞれ細々と糊口を凌いでいた2人が選ばれた[注釈 3]。メンバーが揃ったヤングブラッズは、グリニッジ・ヴィレッジに1964年2月に開店したクラブのカフェ・ア・ゴー・ゴー(Cafe au Go Go)に出演して評判を集めて、やがて専属契約を勝ち取った。

1965年3月、ヤングはマーキュリー・レコードからスコットのプロデュースで2作目のソロ・アルバム『ヤング・ブラッド(Young Blood)』[2]を発表した。マーキュリー・レコードからは、次作の制作を要請されたが、ヤングらは態度を保留した。マーキュリーとの再度の交渉の大きな争点は、会社が斡旋する名前だけの無能なプロデューサー・チームとその経費や印税割を排除し、不慣れなバンド体制による録音時間を少しでも長く確保したいというものだった。ヤングブラッズのデモ・テープから制作された2枚のシングルはプロモーション・サンプルに終わり、発売までに至らなかった。

ヤングブラッズとマーキュリーとの交渉が膠着したので、彼等は自分達の希望を受け入れたRCAビクターと契約を結んだ。この契約は実績のない新人バンドとしては異例なもので、破格なスタジオ使用条件とプロデューサー任命権が含まれていた。彼等はこの権利に基づいて、グリニッジ・ヴィレッジの親しい音楽仲間友人で恣意にしていたビジネスマンのフェリックス・パパラルディをチーフ・プロデューサーとして招聘して契約を結んだ。パパラルディはニューヨーク出身でミシガン大学でクラシック音楽を修め、若手ながら高い評価と実績を持ち、アメリカではジョン・サイモンらと並んで計算立てのアレンジが出来る先進者だった[注釈 4]。彼は契約書類に目を通して、RCAが新人バンドにプロデューサーの人事権などを授けるという画期的な内容を知って驚愕すると同時に歓喜し、ヤングらの交渉手腕に舌を巻いたと云う[注釈 5]

RCAとの契約の中での異例の条項の一つだったスタジオ使用条件とは、要約すると、ヤングブラッズに作品制作の締切り期限まで会社が使用しない空き時間に限ってスタジオを自由に使用できるという占有権を与え、録音経費に含まれる時間制貸切のスタジオ使用料金にはあらかじめ上限額が設定され、RCAは貸切時間超過の使用料についてはヤングブラッズに追加の精算を求めない、というものだった。彼等はこの条項を盾に深夜早朝に施錠を無理強いして解いてスタジオを自由に使い、スタジオ使用明細書の束と共に、アルバム『ザ・ヤングブラッズ(The Youngbloods)』と『アース・ミュージック(Earth Music・英語版)』をパパラルディのプロデュースで完成した[注釈 6]。因みにヤングブラッズとの交渉を拗らせ契約を逸したマーキュリーに残された音源は、Jesse Colin Young With The Youngbloods名義の編集アルバム『トゥ・トリップス(Two Trips )』(1970年[3]に収録された。

1966年11月、ヤングブラッズはシングル「グリズリー・ベア(Grizzly Bear)/ティアーズ・アー・フォーリン(Tears Are Falling)」[4]でデビューした。1967年1月に発表されたデビュー・アルバム『ザ・ヤングブラッズ』は、ボブ・ディラン、ビートルズやバーズなど影響にを受けたサイケデリック・ロック風のリード・ギター、他のバンドがこぞって取り上げたブルースロック調で最先端のロックミュージックが中心だった。6月にシングル・カットされた「ゲット・トゥゲザー(Get Together)」はディノ・バレンティ(Dino Valenti/Chet Powers・英語版)が書き下ろした楽曲で、1964年6月にキングストン・トリオによって発表されて以来、フォーク/フォークロックの数多くのグループやミュージシャンに取り上げられていた。ヤングブラッズのヴァージョンは全米ホットチャートのマイナー部門シングル盤ランキング最高62位と健闘した。また《ビルボード》イージー・リスニング・チャートで37位を記録した[5]


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