ヤロスラフ・スヴャトポルコヴィチ
[Wikipedia|▼Menu]

ヤロスラフ・スヴャトポルコヴィチ(スヴャトポルチチ)(ロシア語: Ярослав Святополкович(Святополчич)、ウクライナ語: Ярослав Святополкович。1072年頃 - 1123年)は、キエフ大公スヴャトポルク2世の側室の子である。ヴォルィーニ公1100年 - 1118年
目次

1 生涯

2 妻子

3 脚注

3.1 注釈

3.2 出典


4 参考文献

5 外部リンク

生涯

1100年、ヴィティチフ諸公会議(ru)で、ヴォルィーニ公ダヴィドの領土の剥奪[注 1]が決まった後に、キエフ大公である父・スヴャトポルクの代官(ナメストニク)として、ヴォルィーニに赴任した。

1102年に、ヤロスラフがノヴゴロド公へ移り、ウラジーミル・モノマフの長男のムスチスラフ(当時ノヴゴロド公)をヴォルィーニ公とするという協定を、ウラジーミル・モノマフと結んだ。しかしノヴゴロドの人々が、これに難色を示したため、ヤロスラフがノヴゴロド公となることはなかった。

1112年、ウラジーミル・モノマフの長男・ムスチスラフの娘と結婚した。また1113年、父スヴャトスラフが死に、モノマフがキエフ大公となったことによって、ヤロスラフは引き続き4年間、ヴォルィーニを統治した。しかし1117年にモノマフが、ムスチスラフをキエフ近郊のベルゴロドへと移すと、ヤロスラフは妻をムスチスラフの元へ送り返し、戦いの準備を始めた。歴史家はこれを、ヤロスラフが、自分のキエフ大公位継承権がおびやかされているとみなしたからだと推測している。1118年、モノマフはロスチスラフ一門(ru)と連携し、ヤロスラフをウラジーミル・ヴォリンスキーヴォルィーニ公国の首都)から追放した。ヴォルィーニ公にはモノマフの子のロマンが置かれた。1119年にロマンが死去すると、モノマフの別の子のアンドレイが継いだ。

ヤロスラフは、ハンガリー王国ポーランド王国軍の援助を得て、ヴォルィーニの所有権の奪還を試みたが、ロスチスラフ一門に破れ、失敗に終わった。1123年、ウラジーミル・ヴォリンスキーの近郊で死去した。
妻子



一人目の妻:
ハンガリー王ラースロー1世の娘。1091年婚。

二人目の妻(ユディタ? マリヤ?):ポーランド公ヴワディスワフ1世の娘。1106年婚。

三人目の妻:キエフ大公ムスチスラフ1世(結婚当時はノヴゴロド公)の娘。1112年婚。1117年 - 1118年のうちに離婚。



ヴャチェスラフ(ru):クレツク公。

ユーリートゥーロフ公

ソフィヤ:ミンスク公ロスチスラフと結婚。

プリブィスラヴァ(ru)[注 2]:1136年頃、ポメラニア公ラティボル1世(pl)と結婚。

(公座の置かれた都市についてはクレツクトゥーロフミンスクを参照。)
脚注
注釈^ ダヴィドは政敵のヴァシリコを捕らえて両目を抉っていた[1]。剥奪はこの行為に対する制裁による。
^ 一説には、キエフ大公ヤロスラフ2世の娘とされる。

出典^ 國本哲男『ロシア原初年代記』282-283頁

参考文献

國本哲男他訳 『ロシア原初年代記』 名古屋大学出版会、1987年。
外部リンク

Ипатьевская летопись

КНЯЗ?ВСЬК? ДИНАСТ?? CXIДНО? ?ВРОПИ


更新日時:2018年11月3日(土)08:43
取得日時:2019/07/30 03:02


記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:9938 Bytes
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef