ヤマハ・YZR500
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YZR500を駆るウェイン・レイニー(1990年アメリカGP)

ヤマハ・YZR500(ワイゼットアールごひゃく)は、ヤマハ発動機がオートバイロードレース世界選手権全日本ロードレース選手権500ccクラスに開発・投入した、競技専用2輪車両(オートバイ)の車種名称。YZRとは、“Y”ヤマハの“Z”究極の“R”ロードレーサーの意味である。
概要

YZR500はヤマハ発動機が2輪ロードレース世界選手権の500ccクラスにファクトリーとして参戦するために開発したレース専用モデルのオートバイである。このYZRシリーズの開発が始まった背景としては、1960年代に本田技研工業(ホンダ)を始めとする日本の4メーカーが「ほぼ全てのレースで勝ちまくった影響で車両レギュレーションが大幅改正されたこと」に端を発している。

それまでのGPマシンはホンダの6気筒250ccに代表される「多気筒高回転エンジン」が上位マシンの主流であった。唯一の例外は500ccクラスをライバルなしで制圧していたMVアグスタの4気筒マシンだった。そこに挑戦状を叩きつけたのがホンダのRC170及びRC171だったのだが、当時大排気量マシンとして認識されていた500ccクラスは、あまり多気筒高回転エンジンにしようとするとマシンが大きく重くなってしまうため、ホンダRC170は当時MVアグスタが採用していた4気筒で同じ土俵で戦うことを選んだ。

その後国際モーターサイクリズム連盟(FIM)は、350cc以下のクラスも350ccクラスで最大3気筒、250ccクラスは最大2気筒、125ccクラスも最大2気筒、50ccクラスは単気筒。変速機は各クラス共通で最大6速までとする、というルール変更を行った。

結果として、それまで350cc以下の各クラスを制圧していた日本メーカーの寡占状態はなくなった。これは開発費用が高騰し続けていたことで参戦を見合わせていたヨーロッパの各メーカーに参戦を促すことにつながった。これを受けて一時撤退したホンダを始めとする日本メーカーも軌道修正を行い、メーカーの販売(日本国内だけではなく全世界を見据えた)戦略としてイメージを高めるために、より大排気量マシンで世界と戦うことを決意した。そんな中でいち早く500ccクラスに照準を絞ったYZR(0W20)を製作したのがヤマハだった。

初代YZR500は、一つ上の排気量である750ccで戦うマシンであるYZR(0W19)とフレームやサスペンションなどの走行装置の設計が共通とされ、製造コストや開発時間の短縮が行われた。しかし、YZR750の主戦場であるF(フォーミュラ)750ccクラスは、それほど市場に受け入れられず、1977年をもって世界選手権から外された。

このような背景から2代目のYZR500(0W23)からは、フレームやサスペンション、タイヤのホイールリムサイズなどを始めとして大幅な専用設計化が進められ、以降は「イメージ世界戦略のメインマシン」として位置づけられることとなっていった。モノクロス(1本バネ)サスペンションが採用されてフレーム剛性とのバランスが見直された0W24や世界初の排気デバイスであるYPVSが採用された0W35。アルミ角断面フレームの採用(0W48)でコーナー立ち上がりの挙動が落ち着きアクセルが開けやすくなるなどのフレーム高剛性化。チャンバーの最大径部を避けるように曲げられたリアスイングアーム(1988年型0W98)。マシンセッティングの効率を良くするためのデータロガー搭載(1989年型0WA8)など、ホンダとは別の意味でロードレース世界選手権のレベルを引き上げるエポックを起こしているのがYZRシリーズの概要的特徴といえる。
欠点克服の開発ストーリー

先ほどのような背景で生まれてきたYZRシリーズだが、実は実戦で負けた悔しさから、さらに深化させられた開発が行われて来たという側面も非常に多い。ちなみにケニー・ロバーツ3連覇の最終年の1980年シーズンに各レースの展開で終始不利な戦いを強いられたにも関わらず勝てたのは「ケニー・ロバーツだけはライダーとしてのスキルが別格」と呼ばれるほどのパッケージング全てのコンビネーションによるものだった。
エンジンレイアウト変更

そこで、ヤマハはそれまでのピストンバルブ直列4気筒という基本構成を捨てて兼ねてからケニーの要求であった「モアパワー」を実現するためにロータリーディスクバルブのスクエア4気筒を選んだ。このエンジンレイアウトが選ばれた理由は、当時のライバルであるスズキ・RGシリーズが使用し続けて来たレイアウトだった。モアパワーを実現するために手っ取り早くライバルをマネするというのはホンダでは「もっとも嫌われる手法」だが、切れ間なく開催され続けるGPスケジュールの合間に「独創性のあるエンジンレイアウトを採用するのはリスクが高すぎる」という判断が働いたのは想像に難くない。しかしエンジンパワーに固執するあまりに大径バルブの採用や高回転域での耐久性に余裕を持たせるためにシリンダー間ピッチが厚めに設計されるなど、ライバルRGシリーズがすでに乗り越えてきた誤ちをしてしまったことで、開発ライダーの金谷秀樹や高井幾次郎曰く「重戦車のような重たいマシン」という烙印を押されることとなった。このような欠点による致命的の症状は81年シーズンの開幕戦のオーストリアから現れ、リアサスが重さで音を上げてウォブル(不安定なマシンの振れ)が酷くてとてもこれ以上は乗れない。というコメントが出て途中リタイヤになるほどだった。
モアパワーと軽量化の追求

このように、良かれと思って作ったマシンが実戦で惨敗を喫する様子を見て、すぐに対策が施されても「マシンの基本特性までは変えられず負け続ける」といった悔しさから、翌年ではハンドリングのためのマスの集中と軽量化が進められてタイトルは奪還できなかったものの名機と呼ばれた0W60の誕生のキッカケになった、などの逸話がある。
スクエア4からV4へ

ちなみに81年シーズンの惨敗を受けて心機一転で臨んだ82年シーズンでもヤマハは負けたのだが、その理由はスクエア4のようにエンジン側面に吸気バルブがあると前面投影面積が減らせないため「これなら直4でもさほど変わらない」という最高速での不利に気付いたことによるもの。

このことから新たにV4エンジンが企画検討の対象になるのだが、これには1960年代後半を戦ったRD05でエンジンパワー確保と信頼性にこだわり過ぎてマシン重量が重く、大きくなってしまった事、さらには水冷式と空冷式の両天秤で開発をスタートし最終的には水冷式で落ち着きながらもホンダ6気筒車とマイク・ヘイルウッドに惨敗した悔しさなども影響があったと考えられる。また、81年シーズン中の後継機検討会議の最中にあるエンジン開発担当エンジニアが「前後気筒の間でロータリーディスクが回ればなぁ…」とつぶやいたのがきっかけとなり、新しいV4マシンの0W61の開発がスタートすることとなった。

さらにもう一つのエピソードとして「0W61は投入時期が一年前倒しになった」ということもあった。その理由は新規開発されたV4マシンの0W61の本来の予定ではスクエア4エンジンの0W60で82シーズンを乗り切って83シーズンから投入されるスケジュールだったものを、81年終了後のオフシーズン中に静岡県磐田のヤマハ本社に訪れたケニーが当時ヤマハチームの監督だった前川和範が「周囲に内緒で見せた」ことがキッカケで、基本的に新しいものが好きなケニーが「あのマシンに乗らせてくれるなら契約金を下げてもらっても良い」と発言したことで、本来翌83シーズン用に一年間の開発リードタイムを持たせるはずだった0W61を「時期尚早なのはわかっていた上で無理に実戦投入した結果」だった。結果、82シーズンのほぼ一年間をかけて問題点の洗い出しと対策の具体化が行われることとなった。
新機軸投入の0W70

前述の通り「ケニーの新しいもの好きな性格」がケガの功名となったのか、翌83年モデルの0W70はケニーからのリクエストにも答え、タイヤの異常磨耗を防ぐため出力特性を柔らかいものとするため敢えてクランクを重くして、コーナー立ち上がりで急激にパワーが出てしまうという症状を改善するなど改良が施された。また、このシーズンの0W70にはアルミツインスパーフレームの走りとも言えるアルミデルタボックスフレームが採用され、ケニー曰く「ハンドリングはかなり良い」というコメントがでるほどだった。つまり82年シーズンを犠牲にするのは覚悟の上で翌83年を本格的なタイトル奪取年とするための準備が82年シーズンの位置付けとなり、結果としてそのフィードバックからデルタボックスフレームやリヤサス構造変更、クランクマスの増量など新機軸が多数盛り込まれたのが0W70だったのである。
それでも続く飽くなき改良の道

そんな0W70にも欠点がなかったわけではない。1983年モデルである0W70は「始動性が最悪」というくらいに悪かった。当時のGPはスタート時のエンジン始動はクラッチを切った状態からマシンを押して勢いが付いたらクラッチミートすることでエンジン始動する「押しがけスタート」であったが、ダッチTT(オランダGP)において、ケニー・ロバーツは押しがけ17歩目にして「やっとYZR500に跨ることができた。」という有り様。また、その前戦のユーゴスラビアでは、ケニーがスタートから40秒も押しがけを続け、ライバルのホンダ勢がコース半ばに差し掛かった頃にやっとエンジンに火が入り、そこからケニーが「渾身のコースレコード連発の追い上げ」を繰り広げながらも4位に食い込むのが精一杯という状態だった。それに対して、ポイントリーダーでライバルのフレディ・スペンサーは3?5歩目でNS500に乗っているという好スタートを切り猛ダッシュ。ケニーは毎レース「まずはスタートの遅れを取り戻すために序盤からプッシュなければならず、それがレース後半のタイヤの磨耗を招いてしまう展開続き」で、これにはライダーの実力でフレディに勝っている自信があるケニーも閉口してしまい「これじゃ予選でフロントローをとる意味がない!とにかく始動性をなんとかしないとレースの結果云々以前に勝負にならない」と語るほどだった。

YZR500の始動性の悪さについて、当時は、NS500の3気筒に比べてV形4気筒のエンジンレイアウトに起因すると言われていたが、それについては半分正解で半分間違いと言うべきとされている。


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