ヤマト王権
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ヤマト王権
ヤマト政権
北東側の藤原宮跡から見た畝傍山
後方に見えるのは金剛山地
奈良県橿原市(旧大和国)
概要
対象国 日本
地域倭国大和地方
政庁所在地大和地方
代表大王倭王
備考
2世紀末?3世紀に大和地方と吉備などの瀬戸内、あるいは北九州、山陰、東海まで含む地域を超えた有力豪族らが大和盆地東南部、三輪山麓の纒向遺跡に政治連合を形成する。8世紀の律令制確立の過程で「朝廷」としての体裁を整えていった。

饒速日命による政権(史書による伝説) ← 日向三代(史書による伝説) ← 地方政権(出雲政権など) 朝廷

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ヤマト王権(ヤマトおうけん)は、古墳時代に「ヒコ(彦)」「ワケ(別)」「オオキミ(大王)」などと呼称された首長もしくは豪族連合によって成立した古代日本の政治および軍事勢力。

大和盆地および河内平野を本拠とし、2世紀?3世紀頃にかけて瀬戸内海周辺をはじめ、山陰および北九州を含む西日本全域、東海などの地域にまでその勢力を及ぼせ、原始的な国家ないし国家連合として鼎立し、纏向遺跡などの計画都市を造営した。4世紀以降では関東北陸南九州などをも統合、王権の象徴となる巨大な前方後円墳を築した。

旧来から一般的に大和朝廷(やまとちょうてい)と呼ばれてきたが、戦後、歴史学者の中で「大和」「朝廷」という語彙で時代を表すことは必ずしも適切ではないとの見解が1970年代以降に現れており、その歴史観を反映する用語として「ヤマト王権」の語などが用いられはじめた。

本記事では、これら「大和朝廷」および「ヤマト王権」について解説する。呼称については、古墳時代の前半においては近年「倭王権」「ヤマト政権」「倭政権」などの用語も用いられている(詳細は「名称について」の節を参照)。古墳時代の後、飛鳥時代以降の大王(天皇)を中心とした日本の中央集権組織のことは「朝廷」と表現するのが歴史研究でも世間の多くでも、ともに一般的な表現である。

ヤマト王権の語彙は「奈良盆地などの近畿地方中央部を念頭にした王権力」の意である。ヤマト王権から律令国家にかけての国家展開は大王(天皇)と畿内豪族の連合である畿内ブロックによる全国支配であるとする見解もある(畿内政権論[1]

なお戦後の一時期、ヤマト王権が王朝交替を繰り返していたという説が盛んに唱えられていたが、その背景には戦前に強調されていた「万世一系」への批判、反発とマルクス主義史学の流行があり、今日ではこうした王朝の交替、非連続性を強調するような論には違和感があるとされている[2]
名称について

1970年代前半ごろまでは、日本史上の4世紀ごろから6世紀ごろにかけての時期をさす時代区分名として「大和時代」がひろく用いられていた。また、この時期に日本列島の主要部を支配した政治勢力のことをさす用語としては「大和朝廷」が一般的だった。

1970年代以降、考古学による発掘調査がすすみ、重要な古墳の発見といった成果が蓄積した。くわえて、考古学的調査において理化学的年代測定年輪年代測定などの科学的調査法が使われはじめ、またその精度が向上していったことから、古墳の編年研究がいちじるしく発展した。また、考古学的な古墳調査と文献史学(一般的な歴史学)は、提携して調査・研究を行うようになり、その対象は古墳時代の政治組織にも及ぶようになった。こうした成果をうけて、「大和時代」という時代区分名、「大和朝廷」という政権名がかならずしも適切ではないと考えられるようになった。この見解は国内の歴史学会等で有力なものとなり、1980年代以降、時代区分名としては「古墳時代」が、また、政権名としては「大和政権/ヤマト政権」、あるいは(この政権が王権であることを重視する立場からは)「大和王権/ヤマト王権」が普及した[注 1]。現在では、高等教育以上では時代区分名として「古墳時代」が用いられることが一般的である。

ただし、「大和」、「朝廷」という語の使用については学界でも依然としてさまざまな見解が並立しており、「大和朝廷」を用いる研究者も少数ながら存在する。

2020年現在、各種メディアでは「政権」、「王権」、「朝廷」の各表記が混在しており、統一はされていない[注 2][3][4][5]
「大和」をめぐって「大和」、「」、および「大和国」も参照

「大和(ヤマト)」をめぐっては、8世紀前半完成の『古事記』や『日本書紀』や、その他の7世紀以前の文献史料・金石文・木簡などでは、「大和」の漢字表記はなされておらず、「倭(ヤマト)」として表記されている。三世紀には邪馬台国の記述が魏志倭人伝に登場する。その後701年大宝律令施行により、国名(郡・里〈後の郷〉名も)は二文字とすることになって「大倭」となり、橘諸兄政権開始後間もなくの天平9年(737年)12月丙寅(27日)に、恭仁京遷都に先立って「大養徳」と(地名のみならずウジ名も)なったが、藤原仲麻呂権勢下の天平19年(747年)3月辛卯(16日)[注 3]に「大倭」に戻り、そして天平宝字元年(757年)(正月〈改元前〉に諸兄死去)の後半頃に、「大和」へと変化していく。同年に(仲麻呂の提案により)施行された養老令から、広く「大和」表記がなされるようになったことから、7世紀以前の政治勢力を指す言葉として「大和」を使用することは適切ではないという見解がある[6][7]。ただし、武光誠のように3世紀末から「大和」を使用する研究者もいる[8]

「大和(ヤマト)」はまた、
国号「日本)」の訓読(すなわち、古代の日本国家全体)

令制国としての「大和」(上述の令制大和国

奈良盆地東南部の三輪山麓一帯(すなわち令制大和国のうちの磯城郡十市郡倭国造

の広狭三様の意味をもっており[注 4]、最も狭い3のヤマトこそ、出現期古墳が集中する地域であり、王権の中枢が存在した地と考えられるところから、むしろ、令制大和国(2)をただちに連想する「大和」表記よりも、3を含意することが明白な「ヤマト」の方がより適切ではないかと考えられるようになった。

ヤマトは大和国の中の地名ヤマトに起源がありおそらく山(三輪山)のト(ふもと)の意味であろうとも言われる[9]。また後世、日本全体のことを表す「秋津洲(あきつしま)」「磯城島(しきしま)」「倭」などは元々、大和平原にあった村の名前であったという指摘もある[10]

白石太一郎はさらに、奈良盆地・京都盆地から大阪平野にかけて、北の淀川水系と南の大和川水系では古墳のあり方が大きく相違している[注 5]ことに着目し、「ヤマト」はむしろ大和川水系の地域、すなわち後代の大和と河内和泉ふくむ)を合わせた地域である、としている[11]。すなわち、白石によれば、1?3に加えて、(4)大和川水系(大和と河内)という意味も包括的に扱えるのでカタカナ表記の「ヤマト」を用いるということである。

一方、関和彦は、「大和」表記は8世紀からであり、それ以前は「倭」「大倭」と表記されていたので、4?5世紀の政権を表現するのは「倭王権」「大倭王権」が適切であるが、両者の表記の混乱を防ぐため「ヤマト」表記が妥当だとしている[7]


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