ヤマト政権
[Wikipedia|▼Menu]

ヤマト王権
ヤマト政権
北東側の藤原宮跡から見た畝傍山
後方に見えるのは金剛山地
奈良県橿原市(旧大和国)
概要
対象国 日本
地域倭国大和地方
政庁所在地大和地方
代表大王
備考
3世紀に大和地方の有力豪族らが政治連合を形成し、律令制確立の過程で「政権」、「朝廷」としての体裁を整えていった。

朝廷

テンプレートを表示

ヤマト王権(ヤマトおうけん)とは、3世紀から始まるとされる古墳時代に「」(きみ)や「大王」(おおきみ)などと呼称された倭国首長を中心として、いくつかの有力氏族が連合して成立した政治権力、政治組織。今の大阪平野奈良盆地、または九州邪馬台国九州説)を中心とする大和地方の国がまわりの国を従えたことからこう呼ばれる。

旧来より一般的に大和朝廷(やまとちょうてい)と呼ばれてきたが、歴史学者の中で「大和」「朝廷」という語彙で時代を表すことは必ずしも適切ではないとの見解が1970年代以降に現れており、その歴史観を反映する用語として「ヤマト王権」の語等が用いられはじめた。

本記事では、これら「大和朝廷」および「ヤマト王権」について、解説をする。

呼称については、古墳時代の前半においては近年「倭王権」「ヤマト政権」「倭政権」などの用語も用いられている(詳細は「名称について」の節を参照)。古墳時代の後、飛鳥時代以降の大王/天皇を中心とした日本の中央集権組織のことは「朝廷」と表現するのが歴史研究でも世間の多くでも、ともに一般的な表現である。

ヤマト王権の語彙は「奈良盆地などの近畿地方中央部を念頭にした王権力」の意であるが、一方で「地域国家」と称せられる日本列島各地の多様な権力(王権)の存在を重視すべきとの見解がある。目次

1 名称について

1.1 「大和」をめぐって

1.2 「朝廷」をめぐって

1.3 「国家」「政権」「王権」「朝廷」

1.4 用語「ヤマト王権」について

1.5 「大和朝廷」


2 首長の称号

3 ヤマト王権の歴史

3.1 王権の成立

3.1.1 小国の発生

3.1.2 邪馬台国と女王卑弥呼

3.1.3 邪馬台国と狗奴国の抗争

3.1.4 邪馬台国畿内説

3.1.5 邪馬台国連合と纒向遺跡

3.1.6 邪馬台国九州説の立場から見た纒向遺跡

3.1.7 ヤマト「王権」の成立

3.1.7.1 「王位」「王権」「王統」

3.1.7.2 「ヤマト王権」と邪馬台国の関係


3.1.8 九州王朝説

3.1.9 多元王朝説・二朝並立説


3.2 王権の展開

3.2.1 前方後円墳体制(古墳時代前期前半)

3.2.2 七支刀と広開土王碑(古墳時代前期後半)

3.2.3 巨大古墳の時代(古墳時代中期前半)

3.2.4 ワカタケルの政権(古墳時代中期後半)


3.3 王権の動揺と変質

3.3.1 継体・欽明朝の成立(古墳時代後期前半)

3.3.2 ヤマト国家から律令制へ(古墳時代後期後半)

3.3.3 「日本」へ



4 史書の記録

4.1 前史

4.2 神武東征と建国

4.3 伝承の時代

4.4 古墳時代


5 神話伝承を根拠とする諸事

5.1 皇紀と建国記念の日

5.2 神宝と皇室行事


6 関連神社

7 脚注

7.1 注釈

7.2 出典


8 参考文献

9 外部リンク

10 関連項目

名称について

1970年代前半ころまでは、4世紀ころから6世紀ころにかけての時代区分として「大和時代」が広く用いられ、その時期に日本列島の主要部を支配した政治勢力として「大和朝廷」の呼称が一義的に用いられていた。

しかし1970年代以降、重大な古墳の発見や発掘調査が相次ぎ、理化学的年代測定年輪年代測定の方法が使用され、一般にその精度が向上されたと評価されたために古墳の編年研究が著しく進捗し、「大和」、「朝廷」という語彙で時代を表すことは必ずしも適切ではないとの見解が現れ、その見解が日本国での歴史学の学会などで有力になり、そのため「大和時代」ではなく、かわって「古墳時代」と呼称するのが日本国での日本史研究および日本国での高等教育では一般的となっている[注 1]。しかし、年輪年代測定や放射性炭素年代測定は実際には確立した技術と呼べる段階に至っておらず、その精度や測定方法の欠点・問題点などが多くの研究者からも指摘されているため、現在でも古墳時代の3世紀開始説に対する根強い反対も存在する[1]

古墳研究は文献史学との提携が一般的となって、古墳時代の政治組織にもおよび、それに応じて古墳時代の政権について「ヤマト王権」や「大和政権」等の用語が使用され始めた。1980年代以降は、「大和政権」、「ヤマト政権」、それが王権であることを重視して「ヤマト王権」、「大和王権」と記述されるようになる。

しかし「大和朝廷」も一部の研究者によって使用されている[2]。これは、「大和(ヤマト)」と「朝廷」という言葉の使用について、学界でさまざまな見解が並立していることを反映している。

2020年現在、メディアでは「政権」や「王権」の表記もあるが、「朝廷」も使用されており統一されていない[3][4][5][6]
「大和」をめぐって「大和」および「」も参照

「大和(ヤマト)」をめぐっては、8世紀前半完成の『古事記』や『日本書紀』や、その他の7世紀以前の文献史料・金石文・木簡などでは、「大和」の漢字表記はなされておらず、倭(ヤマト)として表記されている。三世紀には邪馬台国の記述が魏志倭人伝に登場する。その後701年の大宝律令施行により、国名(郡・里(後の郷)名も)は二文字とすることになって大倭となり、橘諸兄政権開始後間もなくの天平9年(737年)12月丙寅(27日)に、恭仁京遷都に先立って大養徳となったが(地名のみならずウジ名も)、藤原仲麻呂権勢下の天平19年(747年)3月辛卯(16日)(前年に恭仁京完全廃棄(9月に大極殿を山背国分寺に施入))に大倭に戻り、そして天平宝字元年(757年)(正月(改元前)に諸兄死去)の後半頃に、大和へと変化していく。同年に施行(仲麻呂の提案による)された養老令から、広く「大和」表記がなされるようになったことから、7世紀以前の政治勢力を指す言葉として「大和」を使用することは適切ではないという見解がある[7]


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:122 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef