ヤヒヤ・ジャメ
Yahya Jammeh
ガンビア・イスラム共和国
第2代 大統領
任期1994年7月22日 – 2017年1月21日
出生 (1965-05-25) 1965年5月25日(59歳)
ガンビア カニライ
ヤヒヤ・アブドゥル=アズィーズ・ジェムス・ジュンクング・ジャメ(英語: Yahya Abdul-Aziz Jemus Junkung Jammeh, 1965年5月25日 - )は、ガンビアの政治家。同国の第2代大統領。日本の外務省のホームページでは「ヤヤ・A.J.J.・ジャメ・バビリ・マンサ大統領(H.E. Sheikh Professor Alhaji Dr. Yahya A.J.J. JAMMEH Babili Mansa)」と表記されている[1]。
来歴バラク・オバマ夫妻とジャメ夫妻
1984年にガンビア軍に入隊。1989年に中尉に昇進し、1992年に憲兵隊指揮官に任命される[2]。1994年7月22日に無血軍事クーデターにより、大統領ダウダ・ジャワラから政権を奪い、軍事暫定統治評議会議長に就任した[3]。軍事暫定統治評議会は憲法を停止し、国境を封鎖すると同時に戒厳令を布告した。ジャメは、ジャワラ政権の腐敗と民主主義の欠如を理由にクーデターを正当化したが、ガンビア軍内部からは生活環境や給与の面で不満がくすぶっていた[3]。
ジャメは自身の支持基盤として愛国再建同盟を設立し、1996年の民主選挙で大統領に選出されたが、海外の選挙監視団は「自由と公正さからは程遠い選挙」として、選挙を批判した[4]。しかし、選挙制度を一部改革して臨んだ2001年1月18日の大統領選挙で、53%の得票を得て再選され、海外の選挙監視団からも一定の公正さを認められた[5][6]。
2006年3月21日、モーリタニア訪問中に軍事クーデターが発生。即座に鎮圧されたが、訪問を中断して帰国し首謀者を裁判にかけるが、クーデター指導者である陸軍参謀長ドゥレ・チャム大佐はセネガルに逃亡した[5][6][7]。9月22日の大統領選挙で67.3%の得票を獲得し、3選を果たした[8]。2007年4月には、クーデター首謀者10人に禁固刑が言い渡された[9]。2011年11月の大統領選挙では72%の得票を獲得し、4選した。
2014年12月30日、ドバイ訪問中に軍の脱走兵と大統領警護隊の一部によるクーデターが発生。大統領府が攻撃を受けるが、当日中に鎮圧される[10]。
2016年12月1日、大統領選挙で野党候補アダマ・バロウに敗れ、テレビで敗北宣言を行った[11]。しかし、その後「不正があったので受け入れられない」と態度を一転させ大統領職に留まる姿勢を見せ[12]、任期が切れ1月19日にバロウが隣国セネガルのガンビア大使館で大統領就任式を行った後も辞任を拒否し大統領職に居座り続けたため、国際連合安全保障理事会のバロウを支持する決議に基づき、西アフリカ諸国経済共同体加盟の周辺諸国による軍事介入が開始された[13]。こうした事態を受け、翌20日にギニア大統領アルファ・コンデ、モーリタニア大統領ムハンマド・ウルド・アブデルアズィーズがガンビア大統領官邸を訪問してジャメを説得し、ジャメは21日に国営テレビを通じて退陣を表明した[14]。同日夜にはガンビアを出国し、ギニア経由で赤道ギニアに亡命[15]。バロウ側近によれば、ジャメは亡命の際に国庫にあった5億ダラシ(約1100万USDドル)を持ち逃げしている[16]。
2020年2月、カニライ(英語版)にあるジャメの邸宅が山火事により焼失したと報じられた[17]。