有限会社ヤナガワ牧場
Yanagawa Farm種類特例有限会社
本社所在地 日本
〒055-0003
北海道沙流郡日高町福満225-2
.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯42度31分59.2秒 東経142度4分37.1秒 / 北緯42.533111度 東経142.076972度 / 42.533111; 142.076972
有限会社ヤナガワ牧場(ヤナガワぼくじょう)は、北海道沙流郡日高町(旧門別町)にある競走馬(サラブレッド)の生産などを行う牧場。代表的な生産馬はサンライズバッカス、コパノリッキー、キタサンブラックなど。梁川正雄が創業し、北西牧場で牧場長を務めた長男・梁川正克が発展させた。創業者の孫で正克の長男である梁川正晋が三代目社長を務める。創業は北海道平取町で、本場を門別町へ移転。分場として国分農場を使用しており、国分農場で夜間放牧を行っている。 ヤナガワ牧場は北海道平取町で始まった競走馬生産牧場で、日高軽種馬農業協同組合で獣医師をしていた梁川正雄[注 2]が14頭の繁殖牝馬を抱えて1967年(昭和42年)に開業した[3][5]。長男である1943年生まれの梁川正克は当時麻布大学の獣医科に在学する就活生だったが、日本中央競馬会への内定を蹴って父を助けるために実家に戻った[3][4][6]。 同じ頃、芸能事務所新栄プロダクション創業者の西川幸男が生産牧場経営にも乗り出し、オーナーブリーダーになろうとしていた[4]。西川は冠名「ウエスタン」を用いる馬主でもあり[4]、新米馬主だった北島三郎に声をかけて二人の名字から「北」「西」を抜き出してつなげた「北西牧場」[注 3]を開設した[8]。西川は梁川正雄と深い関係を築いており、北西牧場開設にあたって正雄に牧場長就任をオファーした[4]。 しかし正雄には既に自分の牧場があったため、父のために実家に戻ってきていた長男の正克が派遣されることになった[4]。まだ若い正克は西川の強力なバックアップを受けながら牧場長として活躍し、1975年の天皇賞(秋)や1976年宝塚記念などを優勝したフジノパーシア、1979年の天皇賞(秋)を優勝したスリージャイアンツなど活躍馬を輩出した[8]。 長男を北西牧場に送り出した後のヤナガワ牧場は創業者・正雄とその次男で切り盛りしていたが、送り出して10年ほど経過した後にその次男が27歳で急死していた[4]。次男を欠いたことで牧場経営が立ち行かなくなり、正克は北西牧場長を辞めて、再び実家の救済に帰還した[4]。 大物馬主が開設した北西牧場と比べて、ヤナガワ牧場は広さも馬質も劣る小規模牧場だった[9]。正克は規模の違いに苦労したが、元上司の西川幸男から繁殖牝馬を1頭譲り受ける施しを受けたり、北西牧場時代に構築した調教師らの人脈を生かしたりなどして、経営を軌道に乗せることに成功した[5]。 正雄が14頭の繁殖牝馬を抱えて創業したヤナガワ牧場は、正克が軌道に乗せて少しずつ牧場の規模を拡大させた[10]。平取町の牧場を支場にし、新たに門別町の牧場を本場とする二場体制を築くようになっており、さらに繁殖牝馬も度々入れ替えて血統の更新に努めた[11]。正克が二代目となる頃には50頭前後の繁殖牝馬を繋養するようになっており[10]、活躍する生産馬も続々輩出した[8]。 1988年(昭和63年)にはガクエンツービートが菊花賞に出走し、武豊が騎乗するスーパークリークに次ぐ2着となった[8]。1989年(平成元年)にはリアルサファイヤ
歴史
初代・梁川正雄による創業
北西牧場と梁川親子
二代目・梁川正克による発展サンライズバッカスプライドキム
三代目・梁川正晋の時代コパノリチャードコパノリッキーキタサンブラックテーオーケインズ