ヤズド州
????? ???
位置
統計
州都:
• 測地系:ヤズド
• .mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯31度53分41秒 東経54度21分25秒 / 北緯31.8948度 東経54.3570度 / 31.8948; 54.3570
ヤズド州(ヤズドしゅう、ペルシア語: ????? ???, ラテン文字転写: Ost?n-e Yazd)はイランの中央部にある州(オスターン)。州都はヤズド。面積は128,811km2、人口は1,138,533人(2016年国勢調査)[1]。
地理アバルクーフの糸杉(サルヴェ・アバルクーフ)。ヤズドのゾロアスター教の宗教施設。
北東にラザヴィー・ホラーサーン州および南ホラーサーン州、北西にセムナーン州、エスファハーン州、南にファールス州、ケルマーン州と境を接する。
ヤズド州はイラン北西部から南東へ延びるイラン中央高原のほぼ中央部に位置する。イラン中央高原の山地・山脈はおおむね北西から南東へと走っており、ヤズド州もこれらの山地・山脈に区切られる形で北東から南西へ数地域に区分することが出来る。すなわちキャヴィール砂漠の東縁をなすやや平坦な北東部(ほとんどが従来ホラーサーン州に属したタバス郡。標高は700mから800mほど)、ハラーネグ山地(最高点は3158mのドゥールビード山)、州内で最も人口稠密なヤズド回廊(州都のヤズドは標高1230m)、シール・クーフ山脈(最高点は4055mのシール・クーフ・マッシーフ山)とその南西部の山岳地帯(標高1900mから2000m)である。
気候は乾燥し温暖だが、夏は酷暑となる。冬から春にかけて雨が降ることもあるが、北のアルボルズ山脈、南西のザーグロス山脈で雨雲が遮断され、年間降水量は北部で約60mm、シール・クーフでは約20mm、ヤズドでは55.4mmと非常に少ない。このため州内全体を土漠、岩漠が占めており、農耕には不適である。こうした環境にあって、ヤズド州ではガナート(地下水路)が非常に発達し、中には50kmを越えるものもある。 イランへのイスラーム勢力の侵入以前、およびウマイヤ朝・アッバース朝初期の今日のヤズド州については、あまりよくわかっていない。サーサーン朝のヤズデギルド3世がニハーヴァンドの戦いの後に立ち寄ったともいうが、多分に伝説的である。史料では3代カリフ・ウスマーンの時代にバヌー・タミーム族が派遣され太守が任じられたことが見え、おそらくはファールス地方の一部であったことが推定されている。 10世紀には西部ペルシアに大きな勢力を持ったダイラム系のカークイェ朝 カークイェ朝の残された王女がヤズドを統治することになった時、ルクン・アッディーン・サーム・イブン・ランガルがアタベクとして立ち、ヤズド・アタベク朝が成立する。このころのヤズド土着の有力集団としてはサイイドがあげられる。彼らは非常に多くのワクフを設定した。また、この時期以降、ヤズドでも諸スーフィー教団が活発な活動を展開している。ヤズド・アタベク朝はカークイェ朝下同様のヤズドの繁栄を維持し、13世紀のモンゴル帝国の侵入後もフレグに服属して命脈を保つ。13世紀後半以降イルハン朝の干渉が強まるとヤズド・アタベク朝は独立志向を明らかにして貢納を拒否、ガザン・ハーンは兵を送ってこれを滅ぼした。 その後、イルハン朝の衰亡下、ムザッファル朝がヤズドの支配権を得ている。この時期にはムザッファル朝の内訌やティムール朝の侵入などで戦乱に見舞われ、たびたび支配者が代わる状況にあったが、支配者によるマドラサやバーザールの建設などが行われ、重要拠点としての地位を失うことはなかった。
歴史
カークイェ朝
ヤズド・アタベク朝
ムザッファル朝