ヤズィード3世
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ウマイヤ朝カリフ
在位744年4月15日 - 9月25日
出生701年
死去744年9月25日
家名ウマイヤ家
王朝ウマイヤ朝
父親ワリード1世
母親シャーファランド
宗教イスラム教スンナ派
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ヤズィード3世(Yazid ibn al-Walid ibn 'Abd al-Malik、701年 - 744年9月25日)はウマイヤ朝のカリフ(在位:744年4月15日 - 9月25日)。 カリフ・ワリード1世の子で、彼の側室であるペルシア出身の王女を母とする[1]。母のシャーファランドはサーサーン朝最後の皇帝ヤズデギルド3世の孫にあたり、唐に亡命した王子ペーローズを父に持つ[2]。歴史家のタバリーはヤズィードが自分の祖先について語った以下の連句を引用している[3]。私はホスローの子、マルワーンは私の祖先、カエサルは私の祖父、もう一人の祖父はカガン ? ヤズィード3世、transl. Sir John Glubb, The Empire of the Arabs, 200
生涯
ヤズィード自身の記述に寄れば、ヤズィードはアブドゥルアジーズ・ビウン・ハッジャージにBakhraでのワリードとの面会を申し入れたという。アブドゥルアジーズは部族の合議(シューラーを開催し、王朝の将来を決めることを提案した。しかし、ワリードが提案を拒絶したためにヤズィードは攻撃を行い、ワリードを殺害する[6]。ヤズィードはワリードの首を掲げ、槍に刺してダマスカスの市内を練り歩いた。その後、ヤズィードはワリードの後継者に指名されていた[7]王子ウスマーンとハカムを投獄する[8]。
即位の際に、ヤズィードはアッラーの本とスンナに代わって反乱を起こしたのであって、強者が弱者を襲ったわけではないと説明した。建築事業、私財の蓄積、貧しい土地の金の他の土地への移動を禁じ、国境防備の強化、月ごとの手当てと年金の支給を約束した[9]。自身が掲げた公約に違反した場合は退位を誓い、シューラーを経てカリフに選出された。[10]
ヤズィードはユースフ・イブン・ウマルを投獄し、ウマル2世の子であるアブドゥッラー・イブン・ウマルを後任のイラク総督に任命した[4]。粗悪な飲み水に悩むバスラの住民がアブドゥッラーに運河の建設を訴えると、ヤズィードは「建設に要する費用がイラクで徴収されるハラージュの総額に達しても運河の建設費用に充てよ」と工事を認め、アブドゥッラーの名前を冠する運河が建設された[11]。しかし、ホムスはヤズィードへの忠誠の証を拒み、彼に対する反抗の動きがいくつか見られた。アルメニア総督を務めていた従兄弟のマルワーン・イブン・ムハンマドはバイア(忠誠の誓い)を拒み、ワリードの子供の一人をカリフに就けるためにシリアに進軍した[4]。ホラーサーン総督ナスル・イブン・サイヤールはヤズィード3世の主権を認めず、アブドゥッラーの指示を拒絶した[4]。
ヤズィードは脳腫瘍に罹り、病没する[12]。ヤズィードの在位日数は162日で[2]、死後に弟のイブラーヒームが跡を継いだ。 ヤズィード3世は敬虔なイスラム教徒で、自身の言行に忠実な人物だと伝えられている[4]。思想について、禁欲主義者に見せかけていた自由意思論者とも言われている[9]。ワリード2世の治世に軍人の俸給は増額されたが、ヤズィードは俸給をヒシャームの時代の水準に引き下げたため、アン=ナーキス(「削り屋」の意)と渾名された[4]。
人物像
脚注[脚注の使い方]^ Philip Khuri Hitti, History Of Syria (Gorgias Press LLC, 2004), 489
^ a b 前嶋信次『イスラム世界』、158-159頁