ヤシュチラン
[Wikipedia|▼Menu]
建造物33号へと向かう長い階段。奥に飾り屋根が見える。建造物23号にあったリンテル26号。724年と726年の日付があり、カバル・ショーク王妃がイツァムナーフ・バラム2世にジャーガーの兜を手渡している様子を描いている。メキシコ国立人類学博物館蔵。[1]古典期における彫刻の最高傑作とされる。[2]石碑18号。イツァムナーフ・バラム2世がラカンハの王を捕虜にした様子が記録されている。メキシコ国立人類学博物館蔵。

ヤシュチラン(Yaxchilan)は、メキシコ合衆国チアパス州ウスマシンタ川上流域にある古典期マヤ文明都市遺跡。特に、王の姿や碑文が刻まれた58個ものリンテル(まぐさ石)で名高い。

ウスマシンタ川を挟んで対岸はグアテマラ共和国ペテン県である。サリナス川パシオン川が合流しウスマシンタ川を形成する地点からおよそ90キロメートルほど下流に位置し、さらに40キロメートルほど下流には長年ライバル関係にあったピエドラス・ネグラスが存在した。川が大きく湾曲しオメガ状のカーブを形成し、カーブの内側の直径3.5キロメートルほどの区域に遺跡がある[3] 。神殿が立ち並ぶ遺跡の中核部(大広場)は川に面した幅100メートルで長さ1キロメートルほどの狭い人工のテラス上に建設されており[3]、残りの主要な建造物はテラスの裏にあるカルスト地形の丘の斜面や頂上に建っている[3][4]

現在一般的に用いられているヤシュチランという名称はオーストリア人探検家テオベルト・マーラーが命名したもので、マヤ語で「緑の石」を意味する。マーラー以前にこの遺跡を訪れたエドウィン・ロックストローやイギリス人探検家アルフレッド・モーズレーはMencheまたはMenche Tinamit(メンチェー・ティナミット。Mencheはマヤ語で「若い森」、Tinamitはナワトル語で「都市」の意味。Mencheは現地に住んでいたラカンドン族の首長の名であった[5]。)、フランス人探検家デジレ・シャルネーはLa Ville Lorillard(「ロリヤールの都市」の意味。後援者であったタバコ商人ピエール・ロリヤール4世の名をつけた。)と、それぞれ異なった名称をつけている[6]。また、紋章文字の解読から古代のヤシュチランは、Pa'chan(パ・チャン、割れた空)と呼ばれていたことが判明している[7][8][9]
歴史

碑文に残る記録によると、359年に即位した「ヨアート・バラム1世」によって都市が創設されたとされる[10][11]。6世紀前半の10代目の王「結び目ジャガー2世」や11代目の王「キニチ・タトゥブ・頭蓋骨2世」の時代には、ピエドラス・ネグラスやボナンパクとの戦争に勝利し、中部低地の二大国であったティカルカラクムルからも高位の貴族を捕虜にしている[12]

やがて、681年に即位する偉大な王「イツァムナーフ・バラム2世」の60年に及ぶ治世によって華々しい建築活動が行われるが、それまでの150年ほどについては後世に歴史の捏造が行われていたり、碑文の保存状態が悪いこともあり、詳しいことは分かっていない。この歴史の空白期間の原因は、既に大都市に成長していたピエドラス・ネグラスに隷属していたとする説や、近隣の大都市であるパレンケトニナーとの関係も指摘されている[13]。7世紀末から8世紀にかけての「イツァムナーフ・バラム2世」とその息子の「鳥ジャガー4世」の時代がヤシュチランの最盛期であり、ラカンハやボナンパクといった都市を従え、高い飾り屋根が特徴的な建造物33号など現在目にすることができる建造物の多くを建設し、芸術性に優れた多くの作品を残した。

その後、建設・芸術活動は衰退していき、808年にピエドラス・ネグラスへの勝利を記したリンテル10号がつくられてほどなくして、人口が激減し、やがて都市は放棄された。
ヤシュチランの王
ヨアート・バラム1世 359年即位 - 不明

イツァムナーフ・バラム1世 不明

鳥ジャガー1世 378年即位 - 389年

ヤシュ・鹿の角・頭蓋骨 389年即位 - 不明

支配者5 402年在位

キニチ・タトゥブ・頭蓋骨1世 不明

月・頭蓋骨 454年在位 - 467年

鳥ジャガー2世  467年即位

結び目ジャガー1世 508年在位 - 518年頃

キニチ・タトゥブ・頭蓋骨2世 526年即位 - 537年在位

結び目ジャガー2世 564年在位

鳥ジャガー3世 629年即位 - 669年在位

イツァムナーフ・バラム2世 681年即位 - 742年死亡

ヨアート・バラム2世 749年在位

鳥ジャガー4世 752年即位 - 768年在位

イツァムナーフ・バラム3世 769年在位 - 800年頃

キニチ・タトゥブ・頭蓋骨3世 808年在位

建造物

ヤシュチランでは多数の建造物が発見されており、そのうち89個に対して番号が割り振られている。建造物1号から建造物52号までは20世紀初頭のテオベルト・マーラーの調査によるもので、建造物53号から建造物88号までは1930年代のジョン・ボールズの調査によるものである。ただし、球戯場である建造物14号や67号、大広場にある川と平行して7個の建造物が並んだ建造物66号のように、複数の建造物に対しまとめてひとつの番号が割り振られている場合もある。
区分

ヤシュチランの建造物は立地によっていくつかのグループに分けることができるが、著者や書籍によってその分け方は微妙に異なる。代表的なものを3つ挙げる。
テオベルト・マーラー
1903年に発表された"Researches in the central portion of the Usumatsintla Valley"において、読者の混乱を避けるため、次の5つのグループに分けて順番に説明を行った。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:57 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef