この項目では、19世紀のスイスの歴史家について説明しています。20世紀のスイスの歴史家・外交官については「カール・ヤーコプ・ブルクハルト」をご覧ください。
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出典検索?: "ヤーコプ・ブルクハルト"
ヤーコプ・ブルクハルト
Jacob Burckhardt
晩年のブルクハルト
誕生1818年5月25日
スイス、バーゼル
死没 (1897-08-08) 1897年8月8日(79歳没)
スイス、バーゼル
職業歴史家、大学教授
言語ドイツ語
国籍 スイス
影響を受けたもの
レオポルト・フォン・ランケ
ヨハン・グスタフ・ドロイゼン
影響を与えたもの
フリードリヒ・ニーチェ
ウィキポータル 文学
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カール・ヤーコプ・クリストフ・ブルクハルト(Carl Jacob Christoph Burckhardt[1]、1818年5月25日 - 1897年8月8日)は、スイスの歴史家、文化史家、文明史家[2]。代表作『イタリア・ルネサンスの文化』で「ルネサンス」という言葉を広めたことで著名。
生涯ブルクハルトの肖像を用いたスイス・フラン紙幣
バーゼルにある大教会の説教師の子として生まれる。はじめに神学を学ぶが後に歴史学に転じ、1840年からベルリンに滞在し、ランケ、ドロイゼン、ヤーコプ・グリムなどの大家に学ぶ。美術史家フランツ・クーグラー(de:Franz Theodor Kugler)の講義を聴いて深く啓発され、彼とは生涯にわたる親交を結んだ。1843年末にバーゼルで大学教授資格試験に通り、講師として歴史・美術史の講義を行い、かたわら「バーゼル新聞」の政治欄の記事を担当している。1846年に教職をなげうって「人間となるため」ローマへ行き、その間クーグラーが編集する『芸術史綱要』と『絵画史綱要』の仕事を委嘱されて一年ほどベルリンに滞在している。1848年春には、バーゼル大学からの員外教授としての招聘に応じた。
1869年から1879年までバーゼル大学で古典文献学を担当していた哲学者・ニーチェとは親交が深かった。ニーチェの注意を世界史に向けさせたのはブルクハルトであり、ニーチェは他への書簡でも「この隠者のように人と離れて生活している思想家」について尊敬の念をあらわし、ブルクハルトの友情に感謝している。
1872年にベルリン大学からランケの後任として招かれるが、この名誉ある申し出は丁重に断っている。「生粋のバーゼル人として」故郷に骨を埋めるつもりだったからである。晩年の三十年は「印税のために書かされたり、出版屋の下僕となって生きる」ことを嫌い、著作活動をやめ、教育活動に専念している。1893年に公務を完全に退き、その四年後に心臓病で亡くなった。Bene vixit, qui latuit(うまく隠れて生きた者こそ、よく生きた者だ)が、ブルクハルトのモットーだったという。
スイス・フラン紙幣(第8次紙幣)の最高額面1000フラン紙幣には、ブルクハルトの肖像が用いられていた。 1842年にブルクハルトは「私にとって背景が主要な関心事である。そしてそれは文明史によって与えられる。私はそれに身を捧げようと思う」と書いている。「直観から出発することができない場合、私はなにもしない」とも。ブルクハルトの場合、直観は概念より優先されるし、歴史事象そのものよりも時代の雰囲気に関心を持つ。彼の情熱は芸術と学問の歴史、「選ばれたもの」「偉大なもの」に向けられていた。 卑俗なもの、打算を軽蔑していたので、統治の技術や制度にも興味を持たなかった。ブルクハルトはヘーゲルを嫌悪し、歴史哲学には関心がなく、体系を造る者ではなく、あまりにも個性的であったので学派も形成しない。後にイギリスの歴史家ジョージ・グーチ[3]は「一時代や一国民の心理を解釈しようと志した歴史家にして、彼の泉から深く飲まなかった歴史家があろうか」と述べている。
方法
著作
『ベルギー諸都市の芸術作品』、1842年
『ケルン大司教コンラート・フォン・ホーホシュターデン』、1843年
『コンスタンティヌス大帝の時代 Die Zeit Constantins des Grossen』、1853年
新井靖一訳(筑摩書房、2003年)。副題に「衰微する古典世界からキリスト教中世へ」
『チチェローネ イタリアの美術品鑑賞の手引き Der Cicerone』、1855年
瀧内槙雄訳(中央公論美術出版、〈建築篇〉 2004年/〈絵画篇〉 2011年/〈彫刻篇〉 未刊行)- 各大著
高木昌史編訳「美のチチェローネ」(青土社、2005年)- 絵画篇の抜粋訳
嘉門安雄訳(筑摩書房「著作集」、1948年)- 抄訳・古代篇のみ
『イタリア・ルネサンスの文化 Die Kultur der Renaissance in Italien, ein Versuch』、1860年
柴田治三郎訳(中公文庫 上・下、1974年 / 中公クラシックス[4] I・II、2002年)
元版「世界の名著45 ブルクハルト」 中央公論社、1966年、新装版・中公バックス、1979年
新井靖一訳 (筑摩書房、2007年 / ちくま学芸文庫 上・下、2019年)
ルネツサンスの文化、間崎万里訳、國民図書(全2巻)、1925年
文芸復興史、山岸光宣訳、世界大思想全集10〈第二期〉 春秋社、1930年
伊太利文芸復興期の文化、村松恒一郎、藤田健治訳 (岩波文庫(上下)、1931-39年)。数度復刊
没後出版
『ギリシア文化史 Griechische Kulturgeschichte』、1897年
新井靖一訳 (筑摩書房 全5巻、1991-93年 / ちくま学芸文庫 全8巻(改訂版)、1998年)
新関良三訳「ギリシャ文化史」(東京堂出版 全6巻、1948-50年、改訂版1957年)、編訳版