ヤコブの浅瀬の戦い
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ヤコブの浅瀬の戦い
戦争:
年月日:
1179年
場所:ヤコブの浅瀬
結果:アイユーブ朝の勝利
交戦勢力
アイユーブ朝エルサレム王国
指導者・指揮官
サラディンボードゥアン4世
戦力
不明約1,500
損害
不明戦死700
捕虜800
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エルサレムは世界の最も神聖な都市の一つだと多くの人によって考えられてきており、このためにキリスト教徒イスラム教徒は何世紀もの間この聖都の支配権をめぐって戦ってきた。1095年あたりにヨーロッパからキリスト教徒はエルサレムの支配権を取り返すべく聖地へと進軍した。1099年までに十字軍は目的を達成してイスラム教徒からエルサレムを奪った。第一次十字軍の後イスラム諸勢力の反攻に対する不安が聖都を悩ませたため、十字軍は引き続き数年に亘り彼らと対立していた軍をいくつか破った。イスラム史で最も著名な人物の一人、サラディンはキリスト教徒が聖地を支配した約1世紀後、1187年にエルサレムを再占領した。多くの学者たちはイスラムの聖都の奪取は1179年にイスラムのスルタンサラディンとキリスト教徒のボードゥアン4世王とのシリアのヤコブの浅瀬での十字軍へのイスラムの勝利に帰することができると考えている。その場所はラテン語名のヴァドゥム・イアコブ(Vadum Iacob)、現代ではヘブライ語でアテレトとしても知られている。
当時の情勢

最も有名なイスラムの支配者の一人、サラディンはエジプトのスルタンであり、ダマスカスを奪取した後、1174年までにシリアのスルタンになった[1]。シリアでの権力を奪取した後、サラディンはエルサレムの周りにイスラム帝国を打ち立てることを誓った。最終目的は十字軍からの聖都奪回であり、ジハードの終焉への大きな意味を持った一歩であった。しかし、彼のその計画は特に軍事衝突なしに聖地を奪取することを目指していた。ボードゥアン4世は1174年の父アモーリー1世の崩御に伴い、13歳でエルサレム王国の王位に付いた。同年にはサラディンもダマスカスで権力の座に登った。ボードゥアンは敬虔なキリスト教徒であり、サラディンとは相反する立場であった。富裕で有力な指導者であったにもかかわらず、ボードゥアンは非常に若くしてハンセン病を患っていた。映画(「キングダム・オブ・ヘブン」)で時折表現され描かれたように、ボードゥアンは忌まわしい顔を覆うただれを隠すために鉄の仮面をかぶっていた。

エルサレムの王位に登っておよそ3年後、ボードゥアンは最初の軍事的対立に直面した。サラディンは1177年にエルサレム王国に侵攻したが、撃退された。サラディンはほぼ20歳年上でボードゥアンより経験を積んでいたにもかかわらず、若きキリスト教君主は緊張の多い状況にまごつくことはなかった。ボードゥアンと彼の軍は1177年11月25日モンジザールの戦いでイスラム軍に大打撃を与えた[2]。ある学者は、この戦いについて「これは際立った業績――サラディンがリチャード獅子心王第3回十字軍の到来以前に喫した唯一の会戦における敗北であった」[3]と記述した。その戦いが終わってから、サラディンは命からがらエジプトへの逃走を余儀なくされた。その勝利はボードゥアンの軍隊に大損害をもたらしたが、王国中の彼のイメージは強化された。事実、近東のいくらかのキリスト教徒たちは「彼の勝利の『奇跡』は神の命令の徴候を現した」と信じるようにさえなった[3]
ヤコブの浅瀬とシャステレ砦

ヤコブの浅瀬は、エルサレムの北およそ100マイルのヨルダン川にあり[4]アッコン、イスラエルとダマスカスの間の主要街道の一つであった。その場所と重要性のためにヤコブの浅瀬もまたヨルダン川の最も安全な交差点の一つであり、「キリスト教のパレスティナ」と「イスラムのシリア」の文化間の主要な交差点として役立っていた。12世紀に、ボードゥアンとサラディンはヤコブの浅瀬が位置する地域で争い続けた。大胆な戦略的行動とモンジザールでの軍事的勝利の結果、ボードゥアンはヤコブの浅瀬へと進軍して領土に防衛用の砦を築く決心をした。王と彼の軍は、砦はエルサレムを北方からの侵略から守ることができるとともに、サラディンの勢力下にあるダマスカスへ圧力を与えることができると考えた。1178年10月と1179年4月の間、ボードゥアンは新たな防衛線、つまりヤコブの浅瀬のシャステレと呼ばれた砦の構築に着手した。建設が進んでいた一方で、サラディンは、もしシリアを防衛してエルサレムを征服しようと思うならば、彼がヤコブの浅瀬を奪取しなければならないと理解していた。しかし、その時はイスラム教徒の反乱鎮圧のために兵の大部分を北シリアに配置していたために、彼は軍事力ではシャステレの建設をやめさせることができなかった。ある著者の記すところでは、「事実、そうではない場合よりは、他のイスラム教徒との戦争を行うのにキャリアを費やしていたにもかかわらず、サラディンは常にヨーロッパの侵入者に対するイスラムの第一人者を演じることに苦労していた」[5]。その結果、そのスルタンはボードゥアンを6万ディナールで買収して建設をやめるよう要請した。ボードゥアンは断ったが、サラディンは増額して10万ディナールの条件を出してきた[6]。キリスト教の王は再び拒んでシャステレ建設を続けた。1179年の夏までに、ボードゥアンの軍は石の城壁のかなりの部分を築いた。「今や城は強力な10メートルの高さの城壁――ある同時代のアラビア人は後に『石と鉄の難攻不落の城壁』として述べている――まだできてはいないが一つの塔を有していた」[3]
戦いの直前

ボードゥアンが両陣営からの賄賂を拒絶した後、サラディンは北シリアでの反乱から関心を外し、ヤコブの浅瀬とシャステレへと関心を集中させた。彼は更なる交渉は時間の無駄であり、猶予を与えればボードゥアンが大規模な砦を完成させることを悟ったのである。1179年、シャステレの建設が始まって僅か数ヶ月、サラディンはイスラムの大軍を召集してヤコブの浅瀬へ向けて南東へと進軍した。計画は単純明快で、エルサレムないし近隣地域からの援軍がやってくる前に砦とその居住者を包囲することだった。一方、ボードゥアンはガリラヤ湖に面するティベリアスに居り、ヤコブの浅瀬までおよそ半日の距離があった。あらゆる攻撃が彼の計画に降りかかれば、援軍の到着は比較的速く可能になるだろう。さらに、ヤコブの浅瀬の砦は、少なくともそれが完成すれば比較的強力なもので、包囲されたとしても救援が到着するまでは恐らく持ちこたえることができたはずであった。ある従軍したものは著書にて断言しつつ根掘り葉掘り問うている。「包囲は事実上競争であり、ラテン側の援軍が到着する前にイスラム軍は砦の防衛に参るのだろうか」[7]
ヤコブの浅瀬での戦いとサラディンの勝利


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