ヤイツェ
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ヤイツェ
Jajce
Jajce
?а?це

ヤイツェの町


基礎自治体

位置

ボスニア・ヘルツェゴビナでのヤイツェの位置
座標 : 北緯44度20分24.9秒 東経17度15分26.0秒 / 北緯44.340250度 東経17.257222度 / 44.340250; 17.257222
行政
ボスニア・ヘルツェゴビナ
 構成体 ボスニア・ヘルツェゴビナ連邦
 中央ボスニア県
 基礎自治体ヤイツェ
市長Nisvet Hrnji?
民主行動党
地理
面積 
  基礎自治体域329[1] km2
人口
人口(2007年現在)
  基礎自治体域24455人
  備考推計[2]
その他
等時帯CET (UTC+1)
夏時間CEST (UTC+2)
市外局番30
公式ウェブサイト : ⇒opcina-jajce.ba

ヤイツェ(ボスニア語:Jajce、クロアチア語:Jajce、セルビア語:?а?це)は、ボスニア・ヘルツェゴビナの町、およびそれを中心とした基礎自治体であり、同国の中部に位置している。ボスニア・ヘルツェゴビナを構成する2つの構成体のうち、ボシュニャク人クロアチア人を主体としたボスニア・ヘルツェゴビナ連邦に属しており、中央ボスニア県に含まれる。バニャ・ルカムルコニチ・グラード(Mrkonji? Grad)、ドニ・ヴァクフ(Donji Vakuf)を結ぶ道の交点にあたり、プリヴァ川(Pliva)とヴルバス川(Vrbas)の合流地点にある。
目次

1 歴史

2 住民

2.1 1991年


3 1995年の領域変更

4 終戦後

5 周辺

6 参考文献

7 外部リンク

歴史

ヤイツェは14世紀に初めて築かれた町であり、その時代に独立していた中世ボスニア王国の首都であった。街は要塞化され門を有し、また街のそれぞれの門を結ぶ城壁と城が街を守っていた。1463年にボスニア王国がオスマン帝国の配下となると、ヤイツェはオスマン軍に占領されるが翌年にはハンガリー王国マーチャーシュ1世に奪取される。ヤイツェから十数キロメートルのところには、ヤイツェよりも小さいコモティン(Komotin)の城と街があり、かつてのヤイツェの街はコモティンにあったが、黒死病の流行後に現在の場所に移転したと信じられている。

ハンガリー支配下では、ボスニア王妃カタリナ・コサチャ=コトロマニッチ(Katarina Kosa?a-Kotromani?)が聖ルカ聖堂を建て直し、これが今日のヤイツェで最も古い聖堂となっている。1527年、オスマン帝国の拡大に屈したボスニアで最後の街となった。異なった時代に異なった支配者の下でキリスト教聖堂とイスラム教のモスクが建てられ、宗教的多様性のある街となっていった。 ユーゴスラビア人民解放反ファシスト会議(AVNOJ)の会合が行われた建物

第二次世界大戦でヤイツェは歴史に大きく名を残すこととなった。枢軸勢力による占領に抵抗するヨシップ・ブロズ・ティトー率いるパルチザンによって戦後の統治体制の前身となるべく設立されたユーゴスラビア人民解放反ファシスト会議(AVNOJ)の会合が、1943年11月21日から11月29日にかけてこの地で開かれ、ユーゴスラビア連邦の設立、ティトーをその首相とすることなどについて議決された。

ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争初期には、ボスニア・ヘルツェゴビナの主要3民族いずれもがこの街に居住しており、セルビア人の多く住むボスニア北部、ボシュニャク人ムスリム人)の多く住む中部、クロアチア人の多く住む南西部の交点であった。1992年4月末から5月初頭にかけて、ほぼ全てのセルビア人がこの街を去り、スルプスカ共和国(セルビア人共和国)支配地域へと脱出した。1992年10月の10日から11日にかけての夜に、セルビア正教会の聖堂(生神女就寝聖堂 Crkva Uspenja Presvete Bogorodice)は爆破された[3]。1992年夏には、スルプスカ共和国軍(VRS)が激しい攻撃を加えた。ボシュニャク人とクロアチア人の間で協力関係が機能していなかったこともあり、セルビア人勢力は10月に街を占領した。ボシュニャク人とクロアチア人はディヴィチャニ(Divi?ani)を経てトラヴニク(Travnik)へと脱出した。クロアチア人勢力の反転攻勢は1995年の8月から9月にかけて行われ、街はクロアチア人勢力(クロアチア防衛評議会)の支配下となり、セルビア人住民のほとんどが街を脱出した。デイトン合意では、ボシュニャク人やクロアチア人を主体とする構成体・ボスニア・ヘルツェゴビナ連邦の領域となることが決められた。



住民

1931年の時点では、ヤイツェは、イェゼロ(Jezero)、ドブレティチ(Dobreti?i)、シポヴォ(?ipovo)などと共にヤイツェ郡に属していた。

民族構成
年セルビア人 %ボシュニャク人 %クロアチア人 %ユーゴスラビア人 %その他 %合計
193124,17649.84%14,20529.28%10,08020.78%----48,510
19618,67025.14%7,54521.88%13,73339.82%4,34212.59%1980.5734,488
19718,13223.23%14,00140.00%12,37635.35%2080.59%2850.83%35.002
19817,95419.31%15,14536.76%14,41835.00%3,1777.71%5031.22%41,197
19918,66319.24%17,38038.61%15,81135.13%2,4965.54%6571.48%45,007 [4]

ヤイツェからは、365人のセルビア人やムスリム人がヤセノヴァツ強制収容所で殺害されたことが記録されている[5]
1991年 ヤイツェの街と滝を描いたチョントヴァーリ・ティヴァダル・コストカ(Tivadar Kosztka Csontvary)の作品。1903年

ヤイツェの街には13.579人が居住しており、その民族別の内訳は以下の通り:

ボシュニャク人 - 5,277人 (38.86%)

セルビア人 - 3,797人 (27.96%)

ユーゴスラビア人 - 2,217人 (16.32%)

クロアチア人 - 1,899人 (13.98%)

その他・不明 - 389人 (2.88%)

1995年の領域変更

デイトン合意では、ヤイツェを中心とする自治体(ヤイツェ市)の市境は変更され、かつてムルコニチ・グラード市やスケンデル・ヴァクフ市に含まれていたクロアチア人主体の村がヤイツェ市に編入され、かつてヤイツェ市に含まれていたセルビア人やボシュニャク人主体の村が他の自治体に編入された。
終戦後

ヤイツェ自治体の経済は貧弱なままである。UNESCOは、スウェーデンのKulturarv utan granser(国境なき文化遺産)という団体と共に、歴史的地区の再建に当たっている。


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