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モーリス・ブランショ
Maurice Blanchot生誕 (1907-09-22) 1907年9月22日
フランス共和国・ソーヌ=エ=ロワール県、ドゥヴルーズ
死没 (2003-02-20) 2003年2月20日(95歳没)
フランス・イル=ド=フランス地域圏、ル・メニル=サン=ドニ
時代20世紀の哲学、21世紀の哲学
地域西洋哲学
学派大陸哲学、美的経験の現象学
研究分野死の哲学、存在論、倫理学、文学、文学理論、文芸批評、言語哲学、政治哲学
主な概念"Le neutre"(中性的なもの)、死への権利、二種類の死
影響を受けた人物
マルキ・ド・サド、ロートレアモン伯爵、フランツ・カフカ、マルティン・ハイデッガー、シャルル・モーラス、フリードリヒ・ニーチェ、ジョルジュ・バタイユ、ステファヌ・マラルメ、エマニュエル・レヴィナス、フリードリヒ・ヘルダーリンなど
影響を与えた人物
サミュエル・ベケット、ジャック・デリダ、ジル・ドゥルーズ、ポール・ド・マン、ロラン・バルト、Leslie Hill、Sarah Kofman、Pierre Joris、Mario Kopi?、ポール・オースター、ミシェル・フーコー、ジャン=リュック・ナンシーなど
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モーリス・ブランショ(Maurice Blanchot、1907年9月22日 - 2003年2月20日)は、フランスの哲学者、作家、批評家。通称“顔の無い作家”。ストラスブール大学卒業。戦前のポール・ヴァレリーに比せられる戦後最大のフランスの文芸批評家であるという評価が定着している。 フランス・ソーヌ=エ=ロワール県のドゥヴルーズに生まれる。ストラスブール大学でドイツ語や哲学を学んだ。在学中、一つ歳上で、同じくストラスブール大学に在籍していた哲学者エマニュエル・レヴィナスと親交を結んでいる。また大学時代にはアクション・フランセーズなどの影響を強く受け、自らも右翼思想に接近。マルティン・ハイデッガーの『存在と時間』と出会ったのもこの頃であり、ハイデッガー哲学との対話・対決は、その後長らくブランショの課題の一つとなった。 ブランショは、極右機関紙『コンバ(戦闘)』の右翼イデオローグとして文筆活動を開始し、ラディカルな極右の論陣を張る。ピエール・アンドリュー 1930年代末頃、ブランショは、政治的な活動から身を引き、文学活動に沈潜するようになる。『謎の男トマ』初版を刊行した1941年には、ジョルジュ・バタイユと知り合い、彼をはじめとする非共産主義的な左翼の担い手たちとも交友するようになる。またユダヤ人のレヴィナスとは大学時代からの親交が続いていた。 第二次世界大戦中のブランショについては、親ドイツ的中立のヴィシー政権で職に就いていたとの報告がある一方で、二つの伝記的事実が公にされている。ユダヤ人哲学者レヴィナスの親族を第二次世界大戦中のユダヤ人狩りから匿ったことと、バタイユの主著『内的体験』の執筆過程に参与したことである(これはバタイユ自身の証言がある)。当時の状況でユダヤ人を匿ったこと、そして、バタイユが戦前からナチスのフリードリヒ・ニーチェ濫用を咎め精神分析理論を活用してその政治的な力学を批判的に分析していたことを考え合わせれば、戦中においてすでに彼の政治的姿勢は転向を経たものであったことがわかる。もっとも、それゆえに前記のピエール・アンドリューは、ブランショの転向について「もっとも信用のおけない人物」と酷評している。転向後のブランショの立場を要約して説明することは難しいが、大まかに捉えて右翼的立場から左翼的立場に転じたことは確かだと思われる。極右時代のブランショも含めた知識人たちの反ユダヤ主義を研究したジェフリー・メールマン
生涯
極右のジャーナリスト
転向と第二次大戦
ナチズムの成立・侵略と第二次世界大戦の経験はブランショに大きな衝撃を与えた。とりわけホロコーストはブランショにとって決定的な出来事となり、彼はのちに繰り返しこの大虐殺について語ることになる。その彼の痛恨の思いは、例えば『問われる知識人』と題された一文の末尾の、ルネ・シャールの断章を引用しつつ語った部分に表れている。また戦争末期にドイツ軍(といってもドイツ人は指揮官だけで兵士はウラソフ[要曖昧さ回避]軍出身のロシア人だったが)に銃殺されかかり助かった経験は、のちのブランショの人生と著作に大きな影響を及ぼした。フョードル・ドストエフスキーの処刑直前の恩赦の体験に比する人もあるこの体験は、例えば小説『白日の狂気』に反映されており、最後の小説となった『私の死の瞬間』ではこの体験がそのまま用いられている。