モーリス・バレス
[Wikipedia|▼Menu]

モーリス・バレス
Maurice Barres
モーリス・バレス(1918年)
誕生 (1862-08-19) 1862年8月19日
フランス帝国ヴォージュ県ヴォージュ県シャルム(フランス語版)
死没 (1923-12-04) 1923年12月4日(61歳没)
フランス共和国ヌイイ=シュル=セーヌ
墓地シャルム(ヴォージュ県)
職業作家政治家
言語フランス語
文学活動ナショナリズム
代表作『精霊の息吹く丘』
『根こぎにされた人々』
『コレット・ボドッシュ』
ウィキポータル 文学
テンプレートを表示

モーリス・バレス(フランス語: Maurice Barres、1862年8月19日 - 1923年12月4日)は、フランス小説家ジャーナリスト社会主義者、政治家ナショナリズム反ユダヤ主義的な視点による政治的発言でも知られ、フランスにおけるファシズムの思想形成に大きな役割を果たしたとされる。
略歴

ロレーヌ地方ヴォージュ県ヴォージュ県シャルム(フランス語版)に生まれる[1][2]。8歳でプロシアによる占領を経験したことがナショナリズムの思想家としての原点であった。ナンシー大学法学部に入学するも、1883年パリ大学に移籍した。作風は「ロレーヌの魂」を自我の中に再確認し、「土地と血」の連帯を唱えた。

小説『蛮族の眼の下で』で一躍文名を高め、1889年ナンシー地域から下院議員に選出(任期1889-1893年、および1906-1923年[3])、1894年ドレフュス事件ではフランス統一を優先する立場からエミール・ゾラ等と対立した。政教分離についてはこれに反対するカトリック派を支持し、ジャン・ジョレスアリスティード・ブリアンらと激しく対立した[4](1905年、政教分離法成立)。

1906年にアカデミー・フランセーズの会員に選出された[1]第一次世界大戦ではユニオン・サクレを熱烈に支持し、伝統主義・プロテスタント・社会主義とともにユダヤ人にも賛辞を捧げた。死去に際しては、国葬とされ[5]、故郷シャルムの墓地に埋葬された[6]
評価

政治思想では対照的なアナトール・フランスと人気を競い、20世紀前半のフランス青年知識人層に影響を与えた。観念小説三部作『自我礼拝』が代表作、また日記体での『手帖 (Mes cahiers)』が著名だが未訳。 日本では政治的立場のためか訳書が少なく、人気はあまりない。

アンドレ・ブルトントリスタン・ツァラを中心とするダダイストシュルレアリストらが、バレスが極右的な政治思想に傾倒したことを批判して1921年5月13日に即興劇バレス裁判」を上演した。これは当時ダダの機関誌であった『リテラチュール』誌に掲載され[7]、さらに1981年5月の『ユリイカ』第13巻第6号「ダダ・シュルレアリスム特集号」に朝吹亮二訳「資料 バレス裁判」として掲載された[8]。「リテラチュール#バレス裁判 - ダダの終焉」も参照

アルベール・ティボーデは、バレスの思想の背後に、反ユダヤ主義の強い、国家社会主義の信念が予兆として見出されると指摘した[9]。ユージン・ウィーバー(英語版)は、1880年代末以降、まずブーランジェ運動、ついで反ドレフェス陣営に加担して活躍し、いち早く「国民主義的社会主義」という語を使用したバレスの思想に注目し、国民社会主義の潮流が19世紀末に登場し、かつ根強く存続していることに注意を喚起した[10]。ロバート・スーシー(英語版)は、バレスの思想をファシズムの前兆であったとし[11][12]、ゼーヴ・スターンヘル(英語版)は、バレスの思想のなかに、絶大的な大衆信仰、匿名の動物的群衆のなかで自我の忘却、民族の共通の意志と運命を体現する指導者の英雄的行為や力強さへのほとんどニーチェ的な情熱、国民を生物学的に構成するもの?「大地と死者」?に対する本能的愛着がみられるとして、彼をファシズムの先駆者としている[11]


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:33 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef