モーニングショー
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この項目では、テレビ朝日系ワイドショー番組について説明しています。ワイドショーを題材にした日本映画については「グッドモーニングショー」を、アメリカのテレビドラマについては「ザ・モーニングショー」をご覧ください。
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実際に存在したもしくは存在する番組名のリダイレクト(例:羽鳥慎一モーニングショー)の作成はすべて認められていますが、実際に存在しない番組名のリダイレクト(例:渡辺宜嗣モーニングショー)や「○○のモーニングショー」(○○にはMC名が入る)のリダイレクトの作成は認められていません(議論はノート参照)。(2017年3月)

モーニングショー
ジャンルワイドショー番組
製作
制作NETテレビ→テレビ朝日

放送
映像形式第1期:白黒放送( - 1970年3月20日)、カラー放送(1970年3月23日 - )[1]
第2期:ハイビジョン放送、リアルタイム字幕放送(2019年4月より)[注 1]
音声形式第1期:モノラル放送。但し、1979年8月8日及び1980年8月8日は、ステレオ放送[2]
第2期:ステレオ放送
放送国・地域 日本
公式ウェブサイト

第1期(1964年4月から1993年3月まで)
出演者木島則夫
長谷川肇
奈良和
竹中陽一
溝口泰男
江森陽弘
美里美寿々
(現:田丸美寿々
武見敬三
内田忠男
渡辺宜嗣
放送期間1964年4月1日 - 1993年4月2日
放送時間月曜 - 金曜 8:30 - 9:30
放送枠テレビ朝日系列平日午前のワイドショー枠
放送分60分

第2期(2015年10月以降)
プロデューサー小川覚司(CP)
出演者羽鳥慎一
松岡朱里ほか
オープニングmilet『Wake Me Up』
エンディング同上
放送期間2015年9月28日 -
放送時間月曜 - 金曜 8:00 - 9:55
放送枠テレビ朝日系列平日午前のワイドショー枠
放送分115分
公式サイト
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『モーニングショー』(英語: Morning Show)は、1964年4月1日から1993年4月2日(第1期)までは月曜日から金曜日の8:30 - 9:30(JST)、および2015年9月28日(第2期)からは月曜日から金曜日の8:00 - 9:55(JST)に、いずれもテレビ朝日[注 2]系列において生放送形式で放送されたもしくはされている、ワイドショー情報番組である。

日本で初めて放送されたワイドショー番組である。便宜上、1993年までを第1期、2015年以降を第2期とする。
概要
第1期

日本におけるワイドショーの草分けで、『TODAY』(アメリカNBCで1952年から早朝に放送されている情報・ニュース番組)をヒントに制作されたため、日本国内のテレビ局が制作するニュースショーとしても初めて成功を収めた[注 3]

放送時間は毎週月 - 金曜日の8:30 - 9:30(JST、以下略)で、1992年までは、年末年始も休まずにレギュラー放送を続けた[注 4]

テレビ黎明期の民放テレビ局が1、2局しかない地域、一部を除くクロスネット局、テレビ朝日系列局がない地域でもネットされていた。そのため、番組オープニングではタイトル表示に続き、テレビ朝日(1977年3月まではNET)を先頭に各地のネット局の略称をテロップ表示する演出があった。また、テレビ朝日系列の新局に本番組の放映権が移行した後もテレビ朝日系列の新局の受信環境が未整備などの理由で1地域2局同時放送を実施していた地域もあった(後述)。

この第1期の開始当初は白黒放送だったが、1970年3月23日からカラー放送となった。[1]

音声はモノラル放送であるものの、例外として、1979年8月8日及び1980年の同日は、大阪の朝日放送から、阪神甲子園球場での「全国高等学校野球選手権大会」の開会式を番組内で生中継で放送することから、ステレオ放送を行った[2]。尚、1979年の同日は、電電公社(当時、現・NTT)の東名阪及び北陸(金沢)回りに於いての、テレビ中継回線のステレオ化工事が完了したことで[3][4]、テレビ朝日に於いての朝日放送からの初のステレオ生中継となった[注 5][注 6]
第2期

2015年9月28日から第2期として復活した。放送時間は毎週月曜から金曜までの8:00 - 9:55であり、放送尺は第1期と比べ55分長い。
歴史
放送開始までの経緯

教育番組専門局として1959年2月1日に開局した日本教育テレビ(NET)では、当初からスポンサーの獲得などで苦戦を強いられていたため、当時の郵政省から放送の比率を指定されていた「教育番組」や「教養番組」の解釈を拡大しながら事実上の総合編成化を進めていた[注 7]。そこで、『TODAY』をヒントに、1961年2月から主婦向けの情報番組として『東京アフタヌーン』を平日の14:00 - 14:45に関東ローカルで放送。プロデューサーの浅田孝彦は、ラジオで定着しているDJのスタイルで、総合司会に進行やいわゆる「生コマーシャル」へ臨ませるなどの新機軸を打ち出した[5]。また、当番組の成功を受けて『アフタヌーンショー』を立ち上げた江間守一は、NETの開局直後にプロデューサーとして『○月○日』(○は放送月・放送日を示す洋数字)と称する番組を制作した。放送時間がわずか12分間というミニ番組ながら、全曜日にわたって帯番組として編成された。もっとも、当時のNETにとって死活問題であった営業面では振るわず、『東京アフタヌーン』とともに短命に終わっている[6]

これに対して、日本ヴィックス(アメリカのリチャードソン・ヴィックス社と伊藤忠商事の合弁会社でP&Gプレステージの母体企業の1つ)では、アメリカにおける『TODAY』の成功を踏まえて、テレビ界で当時「不毛の時間帯」の1つに数えられていた午前帯への広告の出稿を計画した。NETに対して、視聴率が極めて低かった午前中の学校放送番組の広告枠を、一括で購入することを打診した[7]。この打診がやがて、『TODAY』をモデルに、事件・芸能ニュース・「人間蒸発」などの企画やインタビュー、歌手の生演奏などを織り込んだ[8]単独提供番組を放送する構想に発展した。1962年に博報堂を通じて、NETおよび、当時NET系列の準基幹局だった毎日放送(MBS)に構想を持ちかけた。NETの担当者は浅田で、MBSにも構想を打診したのは、伊藤忠商事や日本ヴィックスと同じく大阪市内へ本社を構えていたことによる。

番組の開始に際しては、当時の日本のテレビ界で主流だったディレクター・システム(ディレクターが絶対的な権限を有する制作体制)に依存せず、浅田を中心とするプロデューサーが全曜日のディレクターを統括する「プロデューサー・システム」を導入した。放送するテーマや内容を制作チーム全体で共有したうえで、同じテーマや内容の企画を複数のディレクターが担当することによって、テーマや内容の柔軟な見直しが可能になった[9][注 8]

初代総合司会については、高橋圭三(元NHKアナウンサー)を最有力の候補に挙げていた。しかし、高橋のスケジュールの都合が付かずに断念した。そこで浅田は、総合司会を視聴者と同じ立場に置くことを想定したうえで、NHK時代の高橋の後輩に当たる木島則夫に白羽の矢を立てた[8]
1960年代・1970年代

『木島則夫モーニングショー』の番組開始当初は「8時半です。おはようございます…。早速きょうのお客様をご紹介しましょう」とゲストの紹介から始めた[10]

初回(1964年4月1日)はNETテレビ、北日本放送中部日本放送(CBC)毎日放送(MBS)の4局で放送。翌週の4月6日(月曜日)からは、中国放送でも同時ネットを開始した。しばらくは上記の5局ネット体制が続いたものの、1960年代の後半から郵政省などの方針で他の地域でも民放テレビ局の開局が相次いだことなどを背景に、徐々に放送地域を拡大していった[注 9]。NET系列局の名古屋テレビが1962年に開局していた中京広域圏で、番組開始当初のネット局がTBS系列局のCBCであったのは、NETの番組区分に沿って当番組を「教育番組」とみなしたことによるとされている[注 7]。ただし、CBCで放送されたのは開始から半年間で、1964年10月1日から放送権を名古屋テレビに移行している。

初代のプロデューサーに就任した浅田は、視聴率の推移から視聴者の欲求を推測し、独自のモニター調査から得られたデータも重視しながら、放送するテーマや内容の細分化(客観的・定量的な選別)に取り込むなど、内容の見直しの高速化を図った。このような手法でディレクターと内容を分離させたことによって、番組は順調なスタートを切った。しかし、1965年9月の人事異動で浅田が(同年4月に始まった『アフタヌーンショー』を含む)「教養番組」全般を統括する職務に就いたことを境に、番組の制作体制を一新した。「5人のディレクターが曜日ごとに責任を持って一般番組と同じように制作する」という縦割り体制の導入によって、ディレクターと内容の分離が維持されなくなったことから、長期にわたる視聴率の低迷を招いた[11]。さらに、企画や娯楽以上にニュースを求める声が視聴者から年々強まったこと[12]から、木島は疲労を理由に1968年3月限りで降板した[注 10]。翌4月から長谷川肇(高橋・木島と同じくNHK出身のアナウンサー)を第2代総合司会に起用したが、1年でNETアナウンサーの奈良和に交代した。奈良は7年半にわたって総合司会を務めた。1976年10月からは「あなたもテレビのキャスターになれる」という一般公募のコンテストで採用された竹中陽一が第4代の司会者に就任した。報道カメラマンやタクシー運転手という経歴を持つ竹中の人生経験が番組に生かされることが期待されたが、「喋らない司会者」と評判になったことでNET側は1977年3月末までの6ヶ月契約を更新しないと1月に通告した。これに対して竹中の妻が番組の内情を明かす手紙を新聞社に送ったために、NET側は契約満了となる3月末を待たずに3月11日で竹中を降板させ、当分はアシスタントの溝口泰男植木まり子が司会を務めることになった[13][14]。竹中は1977年3月18日に裏番組であるフジテレビの『小川宏ショー』にゲスト出演(初代司会の木島と共演した)[14]。奈良の総合司会時代からサブ司会を務めていた後輩アナウンサーの溝口泰男を、1977年5月から正式に第5代総合司会へ起用したことを機に、ようやく巻き返した。

なお、番組開始当初からのネット局だったMBSは、1975年3月31日(月曜日)の近畿広域圏におけるネットチェンジによってNET系列からTBS系列へ移行した。このネットチェンジによって、TBS系列局だった朝日放送(ABC)がMBSと入れ替わる格好でNET系列へ加わったため、同日放送分からはABCが近畿広域圏向けの同時ネットを担った。

長谷川肇時代から江森陽弘時代までは一般視聴者(主に主婦)にも開放し、司会者の立ち位置(または司会者席)の後ろが観客席となっていた。[要出典]

1970年代後半には青少年の自殺などが社会問題化していたことを受けて、当時教育、心理などの分野で活動していた坂東義教による「子育て講座」も織り込まれるなど、人気コーナーもあったが、坂東は著書『坂東先生の教育講座』を執筆直後の1978年11月に死去し、コーナーも自然消滅となった。[要出典]

1979年4月には、同年3月まで香川県のみを放送エリアにしていた瀬戸内海放送岡山・香川の電波相互乗り入れに伴い岡山県[注 11]での放送を開始し47全都道府県での放送となった。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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