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ヘンリー・J・フォードの描くモードレッド卿(1902年)。
モードレッド(Mordred、/?m??dr?d/[1])あるいはモウドリッド(Modred、/?m??dr?d/[2])は、アーサー王伝説に登場する主要登場人物の1人。おおよその文献で一致するのは、カムランの戦いでアーサー王と共に戦死した勇猛な騎士だったということである。『ブリタニア列王史』『アーサー王の死』などでは裏切り者として登場し、アーサー王の親族(甥または息子)で、王に対して謀反を起こし、カムランの戦いでアーサー王に致命傷を負わせるも、討ち取られる。『アーサー王の死』ではアーサー王の異父姉モルゴースの子で、異父兄にガウェイン、ガヘリス、ガレス、アグラヴェインがいる。
名前は、アメリカ発音に基づきモルドレッド(Mordred、/?m?r?dr?d/, /mor?dred?/[3])とも書かれる。ウェールズ語ではメドラウト (Medrawt) またはメドラウド (Medrawd) といい、ラテン語ではメドラウト (Medraut) またはモドレドゥス (Modredus) である。 モードレッドの名を残す現存最古の文献は10世紀の『カンブリア年代記』であり[4]、以下の通り記されている。 537. XCIII. Annus. Gueith Camlann, in qua Arthur et Medraut corruere; et mortalitas in Brittania et in Hibernia fuit[5]. 537年。カムランの戦い――その最中、アルトゥル(アーサー)とメドラウト(モードレッド)が戦死。そして、ブリタニア(ブリテン)とヒベルニア(アイルランド)は荒廃した。 しかし、この記述からは、アーサーとモードレッドがどのような関係であったのか、味方であったのか敵であったのかすら読み取ることができない。 初期のウェールズ語のテキストでは、モードレッドは勇猛で栄誉ある騎士と解釈されていた。グウィネズ王グリフィズ・アプ・カナン
初期の記述
裏切り者としてのモードレッドは、ジェフリー・オブ・モンマスが1136年ごろに記述した偽史『ブリタニア列王史』に現れる。『ブリタニア列王史』はほぼ創作であるが、ドラマチックな内容から人口に膾炙した。この作品では、モドレドゥス(モードレッド)は、ロージアン王ロットとアーサーの妹アンの間に出来た二人の息子の一人であり、実兄にガウェインがいる[7]。モードレッドは、卑劣な裏切り者ではあるものの、「最も果敢な男」「最も攻撃を仕掛けるのに素早い男」[8]と血気盛んな猛者であるとして描かれている。また、『カンブリア年代記』と違って、ジェフリーは裏切りの舞台設定を西暦542年としている[8]。
ある時、アーサー王はローマ皇帝ルキウス・ティベリウス(架空の人物)を討つために、甥のモードレッドと王妃グィネヴィアに国政を任せる[9]。 アーサーは首尾よくルキウスを倒し、さらにその次の夏にローマへ進軍中、アルプスへ入る頃、甥モードレッドの反逆を知る[10]。モードレッドが自ら玉座を奪い、さらに王妃グィネヴィアも夫を裏切ってモードレッドの妻となったというのである[10]。
裏切りを知ったアーサーはブリテンに急いで向かうが、モードレッドはサクソン人の首長ケルドリックをゲルマニアに向かわせて、ブリテンの土地の一部を約束に軍勢を集めさせる[11]。ケルドリックは八百隻の大艦隊を用意、さらにモードレッドはスコットランド人・ピクト人・アイルランド人などの反アーサー勢力を統合し、その軍勢は八万人を数えた[11]。リッチボロー
から上陸したアーサーとモードレッドの戦闘は激戦になり、アーサー側はガウェインを失うなどの大打撃を受けるが、最終的にモードレッド側が敗走し、ウィンチェスターに逃げ込む[11]。モードレッドの敗走を知ったグィネヴィアは彼を見限り、ヨークから逃げて尼僧になる[11]。怒り狂ったアーサーはさらにウィンチェスターに総攻撃を仕掛け、モードレッドはコーンウォールへ向かって遁走[8]。しかし、アーサーに先回りされカンブラ川(カムラン)に陣取られたモードレッドはついに決着を付けること決め、残る六万の兵士を再編成する[8]。混戦の最中アーサーはモードレッドがいる部隊を認めると突撃し、モードレッドは死亡、アーサーもまた致命傷を負う[8]。両軍とも各国の王侯を含む数千人の戦死者を出し、勝者の無い戦いになった[8]。アーサーは傷を癒やすためにアヴァロンの島に運ばれる途中、コーンウォール公カドールの息子コンスタンティンに王冠を譲る[8]。
モードレッドの二人の息子は、サクソン人を率いてなおも抵抗を続け、一人はウィンチェスターに、もう一人はロンドンに籠城したが[12]、最終的に新王コンスタンティンに討伐される[13]。そのコンスタンティンも、モードレッドの息子たちを教会の祭壇の前で殺害したことが災いして神の怒りに触れ、わずか三年後に自身の甥コナン(英語版)によって暗殺、ストーンヘンジに埋葬されてアーサー王伝説は幕を閉じる[13]。
その後、裏切り者モードレッドの伝説は、遅くとも14世紀にはイタリアまで伝わった。例えば、ダンテの『神曲』「地獄篇」第三十二曲61?66行では、裏切り者が堕ちる地獄の最下層コキュートスの第一円「カイーナ」で、「アルツーの手にかゝりたゞ一突《ひとつき》にて胸と影とを穿たれし者」(山川丙三郎訳[14])が苦しみに喘いでいるという描写がある。 1470年ごろに完成したトマス・マロリーの『アーサー王の死』では、アーサーと異父姉モルゴースの近親相姦でできた不義の子とされる[15]。
『アーサー王の死』