モードック戦争
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モードック戦争
Modoc War

1872年7月6日 - 1873年6月4日
場所カリフォルニア州
結果アメリカ合衆国の辛勝

衝突した勢力
モードック族アメリカ陸軍
指揮官
いないフランク・ホイートン
ジョン・グリーン
リューベン・ベナード
アルバン・ジレム
エドウィン・メイソン
ジェファーソン・C・デイビス
"ジャンプオフ"・ジョー・マカルスター
戦力
戦士53名歩兵および騎兵400ないし675名
榴弾砲2門
被害者数
戦死した戦士と部族民13名戦死83名
負傷46名

モードック戦争(モードックせんそう、: Modoc War、またはモードック作戦、: Modoc Campaign、またはラバベッズ(溶岩層)戦争、: Lava Beds War)は、1872年から1873年に掛けて、オレゴン州南部とカリフォルニア州北部における、モードック族インディアンの小規模なバンドと、アメリカ陸軍の間の領土と生活圏を巡った武装闘争である[1]

「戦争」と名は付いているが、実情は合衆国の民族浄化に反抗して、溶岩地帯に立てこもったインディアンの抵抗戦である。この「戦争」はカリフォルニア州あるいはオレゴン州で起こった「インディアン戦争」としては最後のものになり、白人の将軍が戦死した最初で最後の「インディアン戦争」となった。エドワード・マイブリッジがこの戦争の初期を写真に収めている。
発端
モードック族とアメリカ合衆国との条約

インディアン戦争」と呼ばれる、ヨーロッパ白人入植者と先住民族インディアンの紛争全ては、異民族間文化の衝突と、白人による同化政策によって、インディアンたちの土地や生活様式が奪われたことが根本の原因だった。

具体的な動きは1852年に遡り[2]、モードック族インディアンがブラッディポイントで幌馬車隊の白人開拓者65人を殺害したことがきっかけだった。その報復として、和平交渉に来ていたモードック族インディアン51人が「ジャンプオフ・ジョー」が指揮するカリフォルニア民兵隊に殺された。敵対関係は1864年まで続き、この時アメリカ合衆国と、クラマス族、モードック族、およびスネーク族(ヤフースキン隊)が、クラマス保留地を確立する条約に調印した。この条約の条件に従い、ションチン老酋長らモードック族インディアンは、ロスト川、テュール湖およびローワークラマス湖地域の土地を諦め、アッパークラマス渓谷にある保留地に移動した。

この移住はモードック族のラギ(酋長)のキエントプース(英名キャプテン・ジャック)、オレゴン州のインディアン問題監督官アルフレッド・B・ミーチャム、保留地管理人O・C・クナップ、ヤイナックスの管理人補アイバン・D・アップルゲイト、およびW・C・マッケイの間の協議会に続いて調印(インディアンは×印を署名とした)された。この会合の場に米軍兵士達が突然現れたとき、モードック族の戦士達は部族内の女性や子供を置いて逃げ出した。ミーチャムは女性や子供を馬車に乗せて、保留地に向けて出発した。キャプテン・ジャックの姉妹である「クィーン・メアリー」はキャプテン・ジャックに保留地に移住するよう説得するのを許された。メアリーは説得に成功した。キャプテン・ジャックとその仲間は一旦保留地に入ってから、モードックポイントに永住のための家を建てる準備を始めた。
クラマス族による虐待

しかし、モードック族がその家を建て始めてから間もなく、宿敵部族のクラマス族がモードック族に嫌がらせを始めた。キャプテン・ジャックの仲間は保留地の別の場所に移動しなければならなかった。


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