モードック戦争
[Wikipedia|▼Menu]
.mw-parser-output .ambox{border:1px solid #a2a9b1;border-left:10px solid #36c;background-color:#fbfbfb;box-sizing:border-box}.mw-parser-output .ambox+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+link+style+.ambox,.mw-parser-output .ambox+link+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+style+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+link+.ambox{margin-top:-1px}html body.mediawiki .mw-parser-output .ambox.mbox-small-left{margin:4px 1em 4px 0;overflow:hidden;width:238px;border-collapse:collapse;font-size:88%;line-height:1.25em}.mw-parser-output .ambox-speedy{border-left:10px solid #b32424;background-color:#fee7e6}.mw-parser-output .ambox-delete{border-left:10px solid #b32424}.mw-parser-output .ambox-content{border-left:10px solid #f28500}.mw-parser-output .ambox-style{border-left:10px solid #fc3}.mw-parser-output .ambox-move{border-left:10px solid #9932cc}.mw-parser-output .ambox-protection{border-left:10px solid #a2a9b1}.mw-parser-output .ambox .mbox-text{border:none;padding:0.25em 0.5em;width:100%;font-size:90%}.mw-parser-output .ambox .mbox-image{border:none;padding:2px 0 2px 0.5em;text-align:center}.mw-parser-output .ambox .mbox-imageright{border:none;padding:2px 0.5em 2px 0;text-align:center}.mw-parser-output .ambox .mbox-empty-cell{border:none;padding:0;width:1px}.mw-parser-output .ambox .mbox-image-div{width:52px}html.client-js body.skin-minerva .mw-parser-output .mbox-text-span{margin-left:23px!important}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .ambox{margin:0 10%}}

この記事には参考文献外部リンクの一覧が含まれていますが、脚注による参照が不十分であるため、情報源が依然不明確です。適切な位置に脚注を追加して、記事の信頼性向上にご協力ください。(2019年5月)

モードック戦争
Modoc War

1872年7月6日 - 1873年6月4日
場所カリフォルニア州
結果アメリカ合衆国の辛勝

衝突した勢力
モードック族アメリカ陸軍
指揮官
いないフランク・ホイートン
ジョン・グリーン
リューベン・ベナード
アルバン・ジレム
エドウィン・メイソン
ジェファーソン・C・デイビス
"ジャンプオフ"・ジョー・マカルスター
戦力
戦士53名歩兵および騎兵400ないし675名
榴弾砲2門
被害者数
戦死した戦士と部族民13名戦死83名
負傷46名

モードック戦争(モードックせんそう、: Modoc War、またはモードック作戦、: Modoc Campaign、またはラバベッズ(溶岩層)戦争、: Lava Beds War)は、1872年から1873年に掛けて、オレゴン州南部とカリフォルニア州北部における、モードック族インディアンの小規模なバンドと、アメリカ陸軍の間の領土と生活圏を巡った武装闘争である[1]

「戦争」と名は付いているが、実情は合衆国の民族浄化に反抗して、溶岩地帯に立てこもったインディアンの抵抗戦である。この「戦争」はカリフォルニア州あるいはオレゴン州で起こった「インディアン戦争」としては最後のものになり、白人の将軍が戦死した最初で最後の「インディアン戦争」となった。エドワード・マイブリッジがこの戦争の初期を写真に収めている。
発端
モードック族とアメリカ合衆国との条約

インディアン戦争」と呼ばれる、ヨーロッパ白人入植者と先住民族インディアンの紛争全ては、異民族間文化の衝突と、白人による同化政策によって、インディアンたちの土地や生活様式が奪われたことが根本の原因だった。

具体的な動きは1852年に遡り[2]、モードック族インディアンがブラッディポイントで幌馬車隊の白人開拓者65人を殺害したことがきっかけだった。その報復として、和平交渉に来ていたモードック族インディアン51人が「ジャンプオフ・ジョー」が指揮するカリフォルニア民兵隊に殺された。敵対関係は1864年まで続き、この時アメリカ合衆国と、クラマス族、モードック族、およびスネーク族(ヤフースキン隊)が、クラマス保留地を確立する条約に調印した。この条約の条件に従い、ションチン老酋長らモードック族インディアンは、ロスト川、テュール湖およびローワークラマス湖地域の土地を諦め、アッパークラマス渓谷にある保留地に移動した。

この移住はモードック族のラギ(酋長)のキエントプース(英名キャプテン・ジャック)、オレゴン州のインディアン問題監督官アルフレッド・B・ミーチャム、保留地管理人O・C・クナップ、ヤイナックスの管理人補アイバン・D・アップルゲイト、およびW・C・マッケイの間の協議会に続いて調印(インディアンは×印を署名とした)された。この会合の場に米軍兵士達が突然現れたとき、モードック族の戦士達は部族内の女性や子供を置いて逃げ出した。ミーチャムは女性や子供を馬車に乗せて、保留地に向けて出発した。キャプテン・ジャックの姉妹である「クィーン・メアリー」はキャプテン・ジャックに保留地に移住するよう説得するのを許された。メアリーは説得に成功した。キャプテン・ジャックとその仲間は一旦保留地に入ってから、モードックポイントに永住のための家を建てる準備を始めた。
クラマス族による虐待

しかし、モードック族がその家を建て始めてから間もなく、宿敵部族のクラマス族がモードック族に嫌がらせを始めた。キャプテン・ジャックの仲間は保留地の別の場所に移動しなければならなかった。適当な場所探しは手間がかかった。クラマス族は、キャプテン・ジャックとその仲間が最終的に1870年に保留地を離れロストリバーに戻るまで、嫌がらせを続けた。キャプテン・ジャックが保留地に居た数ヶ月の間、多くの白人開拓者達がロスト川地域の土地に勝手に入りこみ、これを占領していった。
ロスト川への帰還

キエントプース(キャプテンジャック)の仲間とクラマス族の間にある悪感情を考慮したアルフレッド・B・ミーチャムは、ワシントンD.C.のインディアン問題理事に対して、キエントプースのモードック族に別の保留地を「与える」よう進言した。ミーチャムは、この進言に対する行動がまだ決まっていない間、キャプテン・ジャックたちにはクリア湖畔に留まるよう指示した。しかし、キャプテン・ジャックとその仲間達は田園部をうろついて白人入植者達に嫌がられたので、白人入植者達はモードック族をクラマス保留地に追い返すようミーチャムに請願した。白人のならず者「ジャンプオフ・ジョー」もまたこの地域に戻り、入植者達に暴力行為を行うようになった。エドワード・キャンビー少将。インディアン戦争で殺された最初で最後の米軍の将軍となった。

ミーチャムは、請願を受け取ったときに、コロンビア方面軍指揮官であるエドワード・キャンビー将軍にキャプテン・ジャックとそのモードック族をクラマス保留地のヤイナックスに移すよう要請した。キャンビーはミーチャムの要請を太平洋岸司令官のスコフィールド将軍に流し、キャプテン・ジャックを保留地に移動させる前に和平調停の試みを行うべきだと促した。1872年4月3日、エルマー・オーティス少佐が現在のオレゴン州オーリーンに近いロスト川峡谷でキャプテン・ジャックと協議の場を持った。キャプテン・ジャックとその仲間は疑いようもなく敵対的だった。彼等はジャンプオフ・ジョーの率いる入植者達に攻撃され、メンバーの1人が殺されて頭皮を剥がれたと苦情を言った。しかし彼らが保留地に戻るためには、何も成されなかった。

4月12日、ワシントンのインディアン問題委員会がワシントン州のためのインディアン問題監督官T・B・オーデニールに、可能ならばキャプテン・ジャックとモードック族を保留地に移し、彼等がクラマス族に虐待されないよう見張ることを要請した。5月14日、オーデニールはその受けた指示を実行し、アイバン・D・アップルゲイトとL・S・ダイアーをキャプテン・ジャックとの協議を手配するよう派遣したが、キャプテン・ジャックはこれを拒んだ。7月6日、ワシントンのインディアン問題理事がオーデニール監督官に、可能ならば平和的に、必要ならば強制的にキャプテン・ジャックとその仲間をクラマス保留地に移すよう指示した。
ロスト川の戦い

11月27日、オーデニール監督官は平和的な解決には悲観して、クラマス砦の指揮官ジョン・グリーン少佐に十分な部隊を連れてきて、「出来ることなら穏便に、無理なら力づくで」、キャプテン・ジャックたちを保留地に強制移住させることを要請した。11月28日、ジェイムズ・ジャクソン大尉が40名の部隊を指揮してクラマス砦を出発し、ロスト川沿いキャプテン・ジャックたちの宿営地に向かった。この部隊はリンクビル(現在のオレゴン州クラマスフォールズ)の市民とジャンプオフ・ジョーが指揮する民兵隊で補強され、11月29日にエミグラント・クロッシング(現在のオレゴン州ストーンブリッジ)より約1マイル (1.6 km) 上流、ロスト川のモードック族の宿営地に到着した。

キャプテン・ジャック酋長は紛争を避けることを願い、保留地に入ることに合意したが、ジャクソン大尉が武装解除を要求したときに事態は緊張した。キャプテン・ジャックは最終的に武装解除に同意した。

モードック族の残りもキャプテン・ジャックと行動を共にする中で、モードック族戦士スカーフェイス・チャーリーと第1騎兵隊B中隊のフレーザー・A・ブーテル中尉が口喧嘩となり、互いの拳銃を抜いて撃ち合ったが、どちらも当たらなかった。モードック族はすぐ前に投げ捨てたばかりの武器を争って取り戻し、短時間撃ち合いになったあと、カリフォルニア州境に向かって逃げ出した。ジャクソン大尉はモードック族を宿営地から追い出した後で、部隊には後退して援軍を待つように命じた。しかし、ジャンプオフ・ジョーとその部隊はモードック族に対する攻撃を続行することに決めた。この短い戦闘における損失としては、米軍兵士1人が戦死し、7人が負傷、モードック族は2人が戦死、3人が負傷した。

ロスト川の戦場からテュール湖南のラバベッズに撤退しながら、フッカー・ジムが指揮するモードック族の一団は11月29日午後と30日朝に18人の白人入植者を殺した。ジャンプオフ・ジョーとその民兵隊はこの攻撃の痕跡を見出したときに、モードック族本体をラバベッズ方向に追撃することに決めた。

この最初の衝突に関する証言は様々である。ある証言では、米軍兵士や民兵はクラマスフォールズで酒を飲んできており、ロスト川の宿営地に着いたときは好戦的な精神状態となって隊列も乱れ、戦いに入ったという。最後に到着して最初に撤退した民兵隊は損失が1人だけだった。米軍はモードック族を追い出したのではなく、戦士達数人がその陣地を確保している間に、女性と子供がその船を出して南にこぎ出した。スカーフェイス・チャーリーは英語が堪能であり、夜通し賭け事をしていたために睡眠不足で気が立っており、おそらく彼自身も酔っていた。偽りの殺人容疑で逮捕令状があったので、そんなに穏やかに行ける状態ではなかった。このときの公式記録は、ジャクソン大尉が後に認めたように、米軍側の不手際を取り繕ったものだった。
溶岩地帯への立てこもり

ロスト川の戦いから数ヶ月前、キャプテン・ジャック酋長は、戦争が起こった場合には、彼とその仲間はチュール湖南岸にある溶岩層のある地域でうまく自分達を守ることができるだろうとみていた。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:35 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef