モンマルトル
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この項目では、地名について説明しています。競走馬については「モンマルトル (競走馬)」をご覧ください。
ポンピドゥー・センターから遠望するモンマルトル

モンマルトル (Montmartre) は、フランスの首都パリで一番高い(標高130メートル[1])。元々はこの丘を含む一帯のコミューン名(旧セーヌ県に属していた。)でもあったが、1860年にその一部がパリに併合されてセーヌ川右岸のパリ18区を構成するようになった。残部はサン・トゥアンに併合された。現在は、専らパリ側の地域を指し、パリ有数の観光名所となっている。サクレ・クール寺院テルトル広場キャバレームーラン・ルージュ」、モンマルトル墓地などがある。
初期の歴史モンマルトルに唯一残るブドウ畑(冬)

モンマルトルは長い間、パリから独立した村だった。モンマルトルの名は、Mont des Martyrs(殉教者の丘)が由来である。

紀元272年頃、ドルイドの聖地であったと考えられている「モンス・メルクリウス(Mons Mercurius)=メルクリウスの丘」の付近で、後にフランスの守護聖人となったパリ最初のキリスト教司教ディオニュシウス(サン・ドニ)と2人の司祭ラスティークとエルテールの3人が首をはねられて殉教したと伝えられている。ヤコブス・デ・ウォラギネの「黄金伝説」によれば、首をはねられたサン・ドニは、自らの首を抱えながら北の方に数キロメートル歩き、息絶えたという。その場所がサン=ドニサン=ドニ大聖堂になったとされる。以来、その丘はモンス・マルテュルム(Mons Martyrum)=殉教者の丘と呼ばれるようになった。

1534年8月15日イグナチオ・デ・ロヨラが、バスク出身のフランシスコ・ザビエル、フランス出身のピエール・ファーヴルスペイン出身のアルフォンソ・サルメロンディエゴ・ライネスニコラス・ボバディリャ、そしてポルトガル出身のシモン・ロドリゲスら6人の同志と共に丘の中腹にあった聖堂で生涯を神にささげる誓いを立てて、イエズス会の創設の端緒となった。

フランス革命時は暗殺されたジャン=ポール・マラーを記念してモンマラーと改称されたが、革命収束後モンマルトルに戻された。モンマルトルは長い間パリ郊外の農地であり、ブドウ畑風車がシンボルであった。また丘の上には大きな女子修道院が建っていた時代もあった。
19世紀カミーユ・ピサロによる『モンマルトル大通り(Boulevard Montmartre)』(1897年)。

1840から1845年にかけてティエールの城壁が造られたことにより、コミューンが二分された。

都市化が進むのは19世紀半ばである。ナポレオン3世の指示でセーヌ県知事オスマン男爵によるパリ改造が行われ、多くの市民が中心部の家を失い、パリ外縁部のフォーブール(近郊)へ移転を余儀なくされた。その移転先の一つがモンマルトルであった。

1860年、コミューンのうちティエールの城壁内がパリに、城壁外はサン・トゥアンにそれぞれ併合された。

パリの税金や規制が適用されず、また長年丘の上の修道女たちがワインを作っていたことは、モンマルトルが飲み屋街に変わる原因となった。19世紀末から20世紀初頭、モンマルトルはデカダン歓楽街となり、ムーラン・ルージュル・シャ・ノワールといったキャバレーが軒を連ね、有名な歌手やパフォーマーらが舞台に立った。

1876年から1912年にかけてモンマルトルの丘の上にサクレ・クール寺院(Basilique du Sacre-C?ur de Montmartre)が、1871年普仏戦争敗戦後にその償いとして一般の寄付で建設された。白いドームは街中から見えるパリのランドマークになった。
芸術家の街テオフィル・アレクサンドル・スタンラン(Theophile Steinlen)によるキャバレー「ル・シャ・ノワール」の広告ポスター

19世紀半ば、ヨハン・ヨンキントカミーユ・ピサロといった芸術家たちがパリ大改造で整備されてしまった市内を離れ、まだ絵になる農村風景の残っていたモンマルトルに居を移すようになった。安いアパートやアトリエ、スケッチのできる屋外風景を求める画家達が後に続き、19世紀末の世紀末芸術の時代にはモンマルトルはパリ左岸のモンパルナスに対抗する芸術家の集まる街へと変貌した。

パブロ・ピカソ1904年から1909年までの間)、アメデオ・モディリアーニ、ほか貧しい画家達がモンマルトルの「洗濯船(Le Bateau-Lavoir)」と呼ばれる安アパートに住み、アトリエを構え制作活動を行った。ギヨーム・アポリネールジャン・コクトーアンリ・マティスらも出入りし議論する活発な芸術活動の拠点となった。特にピカソが『アビニヨンの娘たち』(1907) を描いた場所、キュビスムが生まれた場所として知られるが、1970年の火事で焼失し、1978年にコンクリートで復元された。現在は小さなショーウィンドーに資料を展示している。.mw-parser-output .locmap .od{position:absolute}.mw-parser-output .locmap .id{position:absolute;line-height:0}.mw-parser-output .locmap .l0{font-size:0;position:absolute}.mw-parser-output .locmap .pv{line-height:110%;position:absolute;text-align:center}.mw-parser-output .locmap .pl{line-height:110%;position:absolute;top:-0.75em;text-align:right}.mw-parser-output .locmap .pr{line-height:110%;position:absolute;top:-0.75em;text-align:left}.mw-parser-output .locmap .pv>div{display:inline;padding:1px}.mw-parser-output .locmap .pl>div{display:inline;padding:1px;float:right}.mw-parser-output .locmap .pr>div{display:inline;padding:1px;float:left}モンマルトル モンマルトルの位置(パリ)

ナビ派などの芸術集団がモンマルトルで組まれ、ほかに様々な美術家、詩人、劇作家、小説家などが生活・制作した。代表的な人物には、フィンセント・ファン・ゴッホピエール・ブリソーアルフレッド・ジャリジャック・ヴィヨンレイモン・デュシャン=ヴィヨンアンリ・マティスアンドレ・ドランシュザンヌ・ヴァラドンピエール=オーギュスト・ルノワールエドガー・ドガモーリス・ユトリロアンリ・ド・トゥールーズ=ロートレックテオフィル・アレクサンドル・スタンランらがいる。


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