モンマス
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この項目では、ウェールズ(イギリス)の都市について説明しています。その他の用法については「モンマス (曖昧さ回避)」をご覧ください。

マンモス」とは異なります。

モンマス.mw-parser-output .plainlist--only-child>ol,.mw-parser-output .plainlist--only-child>ul{line-height:inherit;list-style:none none;margin:0;padding-left:0}.mw-parser-output .plainlist--only-child>ol li,.mw-parser-output .plainlist--only-child>ul li{margin-bottom:0}

英語: Monmouth

ウェールズ語: Trefynwy


モノウ橋
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人口8,877人 
英式座標SO505125
プリンシパル・エリア

モンマスシャー

セレモニアル・カウンティ

グウェント(英語版)

構成国 ウェールズ
イギリス
郵便地域.mw-parser-output span.allcaps{text-transform:uppercase}MONMOUTH
郵便番号NP25
市外局番01600

警察グウェント
消防サウス・ウェールズ
救急医療ウェルシュ

欧州議会ウェールズ
英国議会

モンマス(英語版)

ウェールズ議会

モンマス(英語版)


場所一覧
イギリスウェールズモンマスシャー.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯51度49分 西経2度43分 / 北緯51.81度 西経2.72度 / 51.81; -2.72座標: 北緯51度49分 西経2度43分 / 北緯51.81度 西経2.72度 / 51.81; -2.72

モンマス(: Monmouth、[?m?nm?θ] MON-m?th)は、ウェールズ南東の町。モンマスシャーの一部であり、国会議員選挙区の一つである。

モノウ川ワイ川の合流地点にあたり、イングランドとの境から3キロメートル足らず、カーディフから北東に約58キロメートル、ロンドンから西に約204キロメートルの所に位置する。

かつてはブルスティアム(英語版)というブリタンニア時代の小さな砦があり、1067年以降にノルマン人モンマス城を築いてから後、町が形成された。モノウ橋という中世の石造りの橋は、同じ様式の橋としてはイギリスで唯一現存するものである。モンマス城は後にランカスター朝のものとなり、1387年にはヘンリー5世生誕の地となった。1536年にモンマスはモンマスシャーの首府 (county town) となった。

モンマスはのちにワイ渓谷(英語版)の中心地として観光名所となり、また市場町ともなった。現在のモンマスは、周辺の田園地帯にとって買物とサービス業の中心地であり、教育と文化活動の拠点として機能している。またA40ロード(英語版)でニューポートと接続し、M50モーターウェイ(英語版)でロス=オン=ワイ(英語版)と接続する。
地名の由来[ソースを編集]

"Monmouth" の名は、"Monnow-mouth"(モノウの口)を縮約したものである。モノウ川の "Monnow" は、ウェールズ語の "Mynwy"(おそらく元は「速い水流」の意)がアングロサクソン風に変化したものである。またウェールズ語では、元々「モノウの口」を意味する "Abermynwy" と呼ばれたが、17世紀までには「モノウの町」を意味する "Trefynwy"(Mynwy の頭の m が子音弱化して f に転じた)となった[1]
歴史[ソースを編集]

モンマス考古学会(英語版)がモノウ・ストリート沿いに行なった発掘調査によって、町ができた頃に関する多くの知見が得られている。イギリス考古学評議会(英語版)は、モンマスを考古学上イギリスで十指に入る町としている[2]
古代ローマ時代[ソースを編集]

モンマスの最初の定住者として知られるのは、ブルスティアム(英語版)に築かれた小さな砦の古代ローマ軍である。この砦は、ローマ支配の最前線上に築かれた軍事拠点の網の目の一つであり、ローマ街道によって、より大規模なローマ都市のグルビューム(英語版)(グロスター)とイスカ・オーガスタ(英語版)(カーリーアン(英語版))に通じていた。考古学者たちは現在の町の中心部で、古代ローマの陶器(英語版)とコインを発見している。ローマン・ブリテン時代の後期、2-4世紀の終わりにかけてモンマスは、近傍のゴバミアム(英語版)(アバーガベニー(英語版))とアリコニアム(英語版)(ロス=オン=ワイ(英語版)近く)と同じく、鉄鉱石木炭を使った鉄鋼生産の中心地となっていたようである[3][4][5]
中世[ソースを編集]モンマス城。一部は現在も連隊本部および博物館として使われている。モンマス帽のオリジナルとして唯一現存する16世紀の帽子。モンマス博物館で展示されている。

古代ローマの支配が終わると、この地域はウェールズの Ergyng 王国 (en) の南端となった。モンマスで定住が続いたことの唯一の証拠は、7世紀にあったという教会の記録である。この教会が町のどこにあったかは分からないが、ウェールズの聖人 Cadoc (en) に捧げられたものだった。1056年、この一帯はウェールズの王子 Gruffydd ap Llywelyn (en) によって蹂躙された。彼はウェールズ人サクソン人デーン人の軍を率いてヘレフォード伯(英語版)ラルフ・ザ・ティミッド(英語版)を破り、北方29キロメートルのヘレフォードにあるサクソン人の町を略奪した[5]

1066年のノルマン・コンクエストの後、ヘレフォード伯爵領はノルマンディー・ブルタイユ(英語版)のウイリアム・フィッツオズベルン(英語版)に与えられた。彼はウィリアム1世にとって最も忠実な同盟者の一人であり、この一帯をウェールズ人から防衛した功労者だった。新たにモンマス城が建てられたが、これにより堅固な拠点から周辺地域へ眼を光らせ、また農作物・木材・鉱産物といったこの地域の重要資源や渡河行動を統制することが可能になった[3]。当初の城はモット・アンド・ベーリーで造られたようだが、後に石造りとなり、時代を経て補強・拡張されていった。町は周辺へと広がってゆき、1075年頃にはベネディクト会の小修道院 (priory) が設立されたが、これはウイリアム・フィッツオズベルンの息子 Roger de Breteuil (en) が失脚した後にモンマスの領主となったブルトン人の Withenoc (en) によるものである[3]。1100年頃に生まれ『ブリタニア列王史』を著したことで最も知られる修道士ジェフリー・オブ・モンマスは、この小修道院で暮らしたことがあるかも知れない。

モンマスはドゥームズデイ・ブックに記録されており、それ以降も発展を続けた。モノウ・ストリート沿いに初期の自治邑土地保有態様(英語版)が発達し、川の西側、オーバーモノウ(英語版)の郊外が12世紀には発達し始めた[3]。その頃の証文類には、町におけるの取引、鉄鉱石木炭を使った鍛冶場の存在が記されている。鍛冶場からは大量の燃え殻が出され、それらは建物の基礎に使われた。オーバーモノウのシンダーヒル・ストリート (Cinderhill Street) の名は、この頃につけられたものである[6]


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