モンファルコーネ
Monfalcone
行政
国 イタリア
州 フリウリ=ヴェネツィア・ジュリア
県/大都市 ゴリツィア
CAP(郵便番号)34074
市外局番0481
ISTATコード031012
識別コードF356
分離集落Marina Julia, Panzano [1]
隣接コムーネ#隣接コムーネ参照
公式サイト ⇒リンク
人口
人口29570 人 (2023-01-01 [2])
人口密度1,441 人/km2
文化
住民の呼称monfalconesi
守護聖人救済の聖母マリア
(Madonna della salute)
祝祭日11月21日
地理
座標.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯45度48分 東経13度32分 / 北緯45.800度 東経13.533度 / 45.800; 13.533
モンファルコーネ(伊: Monfalcone)は、イタリア共和国フリウリ=ヴェネツィア・ジュリア州ゴリツィア県にある、人口約30,000人の基礎自治体(コムーネ)。
アドリア海に面した港湾・工業都市で、造船業の拠点である。周辺地域も含めたモンファルコーネ都市圏の人口は5万人に達し、県都ゴリツィアを上回る。 標準イタリア語以外の言語では以下の名を持つ。 ゴリツィア県東南部に所在するコムーネで、ビシアカリア地方 (it:Bisiacaria
名称
ヴェネト語グラード方言 (it
フリウリ語: Monfalcon [5]
スロベニア語: Tr?i?
ドイツ語: Falkenberg
地理ゴリツィア県概略図
位置・広がり
市域南東部はトリエステ県と接する。 隣接するコムーネは以下の通り。括弧内のTSはトリエステ県所属を示す。 アドリア海最奥部、ヴェネツィア湾の北東部に面した沿岸に位置する。地勢は平坦であるが、市域北東部にカルソ台地が迫る。 モンファルコーネの海は、地中海の最北端にあたる。とくに入り江はリド・ディ・パンツァーノ( (it:Lido di Panzano モンファルコーネにおけるイタリアの気候分類 (it モンファルコーネ(Monfalcone)の市街地はカルスト台地とアドリア海の間の平野部に広がっており、港を中心に発展している。スタランツァーノやロンキ・デイ・レジョナーリとは市街地が連坦している。 海に面してパンツァーノ(Panzano)やマリーナ・ジュリア(Marina Julia)などの地区・集落がある。 先史時代の要塞化した集落の遺跡がある。ローマ時代の紀元前181年、植民都市アクイレイアが建設されると、丘の上に Insulae Clarae と呼ばれるいくつかの建物が建てられた。 西ローマ帝国の崩壊後、東ゴート王国、西ローマ帝国、ランゴバルド王国、フランク王国の支配を経て、967年にアクイレイアの総大司教領となった。 1420年、ヴェネツィア共和国が3度の戦争の末にモンファルコーネを統治下に収めた。1511年にフランスによって攻め落とされた後、ヴェネツィアによる奪回、ハプスブルク家のマクシミリアン1世による占領を経て、1521年にヴェネツィアが再奪回し、以後1797年にヴェネツィア共和国がナポレオンによって解体されるまでその領域にあった。 ウィーン会議後、ハプスブルク君主国(オーストリア帝国)の領土となる。 第一次世界大戦中、イゾンツォ川流域はイタリア王国とオーストリア=ハンガリー帝国による激しい争奪の舞台となった(イタリア戦線参照)。
隣接コムーネ
ドベルド・デル・ラーゴ - 北
ドゥイーノ=アウリジーナ (TS) - 南東
スタランツァーノ - 西
ロンキ・デイ・レジョナーリ - 北西
地勢・地形
気候分類・地震分類
おもな都市・集落
イゾンツォ川下流域
パンツァーノ・バーニ
歴史La Roccaトリエステ自由地域との国境チェックポイント