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座標: .mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯41度29分24秒 東経13度48分50秒 / 北緯41.49000度 東経13.81389度 / 41.49000; 13.81389モンテ・カッシーノと修道院
モンテ・カッシーノ(Monte Cassino)は、イタリア共和国ラツィオ州フロジノーネ県カッシーノ市郊外に位置する標高519mの岩山。ヌルシアのベネディクトゥスが同地に初めてベネディクト会の修道院を築いたこと(529年ごろ)で有名[1]。同修道院は古代から中世を通じてヨーロッパの学芸の中心という重責を担っていたが、戦乱の中でたびたび破壊された。 ローマの南東130キロに位置する。 もともとはローマ人の築いたカッシヌムという町が岩山の上にあったとされる。現在のカッシーノの町はさらに1.5キロほど東にある。 古代のキリスト教関連施設ではよくあることだが、モンテ・カッシーノに築かれた修道院も異教の神殿の上に建てられた。もともとはそこにはカッシーノの町の城壁に隣接していたアポロ神殿があったが、ゴート族の侵入によって荒らされていた。ベネディクトゥスは同地にやってくると、アポロの像を打ち倒し、異教の神殿を破壊した。彼は同地を洗礼者ヨハネに捧げ、修道院を築いてそこへ定住した。ベネディクトゥスとその同志たちは定住の誓いをたてることを特徴としたように、同地へ生涯にわたって定住した。そこで有名なベネディクトゥスの戒律が執筆され、西方修道制の起源となった。東ゴート族のトーティラは543年にベネディクトゥスを訪問している(ベネディクトゥスの生涯で年代が確定している出来事はこれだけである)。 モンテ・カッシーノで始まった修道士たちによる新しい共同生活、つまり祈りと労働を重視するスタイルは西方の修道制のひな型となり、多くの修道院を生み出していった。モンテ・カッシーノの不幸は、同地が戦略上の要地に位置していたことであった。このため、たびたび戦災をこうむることになる。 584年にはランゴバルド人によって修道院が破壊されると、修道士たちはローマへの退避をよぎなくされた。彼らがモンテ・カッシーノに戻ることができたのは、それから百年近く後のことになる。この間、創立者ベネディクトゥスの遺骸は、フランスのオルレアンに近いサン・ベノア・スル・ロワールに安置されていた。718年にモンテ・カッシーノの修道院が再建されると、同地には再び優れた修道士たちが結集するようになり、名声を誇った。修道士の中にはカール・マルテルの子カールマン、アストルフ大公大ロンバルドの兄弟ラーキス 再建されたモンテ・カッシーノ修道院は11世紀になると、有名なデジデリウス院長(後の教皇ウィクトル3世)やオデリウス院長のもとで再び活気を取り戻す。
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