この項目では、ウルグアイの首都について説明しています。その他の用法については「モンテビデオ (曖昧さ回避)」をご覧ください。
モンテビデオ
Montevideo
空から見たモンテビデオ
愛称 : モンテビデオ、汝の館 (Montevideo, tu casa)
位置
位置
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座標 : .mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}南緯34度53分0秒 西経56度10分0秒 / 南緯34.88333度 西経56.16667度 / -34.88333; -56.16667
モンテビデオ(スペイン語: Montevideo [monteβi?de.o])は、ウルグアイの首都。モンテビデオ県の県都でもある。メルコスールの事務局が置かれている。同国南部[n 1]、ラ・プラタ川の河口左岸に位置する最大の都市で、2011年の人口は約130万人である。ウルグアイ最大の貿易港を有し、温暖な気候で知られる。
ポシートス、ブセオ、マルビン、プラシャ・デ・ロス・イングレセス(イギリス人の砂浜)、プラシャ・ベルデ(緑の砂浜)、プンタ・ゴルダ(太い岬)、カラスコなどの美しいビーチがあり、その他にも観光地として多くの記念碑や博物館、歴史的建造物や通りがある。マーサー・ヒューマンリソースコンサルティングによると、ラテンアメリカで最も生活の質が高い都市とされている[4](これにブエノスアイレスとサンティアゴが続く)。 由来には諸説あるが、いずれの説もスペイン語で山を意味する「モンテ」がモンテビデオ湾の西岸にそびえるフォルタレーザ・デル・セロ
歴史
地名の由来
Monte Ovidio説 - フォルタレーザ・デル・セロは当初「聖オヴィディオ山(Monte Ovidio)」と命名されたとする説。市の観光案内では、これが採用されている[6]。
Monte vide eu説 - フェルディナンド・マゼランの艦隊がこの土地を見つけた際、ポルトガル語で「Monte vide eu(我、山を見たり)」と述べたとする説。
Monte VI De Este a Oeste説 - スペイン人がこの土地を地図に記す際に「Monte VI De Este a Oeste(東から西に向けて六番目の山)」と記し、それの頭文字が略されたとする説。
初期の歴史モンビデオの丘からみた市街地(1865年)1888年のモンテビデオ
1516年にフアン・ディアス・デ・ソリスがここを訪れたが、チャルーア族に殺害された。1624年に、現在のモンテビデオの地にグアラニー族を対象とするイエズス会伝道所が建設された。
その後、1680年にポルトガル人が、今のモンテビデオの西にコロニア・デル・サクラメントを建設する。その後、スペイン人はトルデシリャス条約を持ち出してポルトガル人と戦い、1720年にサンホセ要塞が建設された。1726年に、ブエノスアイレス総督のブルーノ・マウリシオ・デ・サバーラがサンホセ要塞を拡大して、都市サン・フェリペ・イ・サンティアゴ・デ・モンテビデオ(San Felipe y Santiago de Montevideo)を建設する。これが現在のモンテビデオ市の基礎となった。
1828年にウルグアイが独立すると、その首都となった。
1832年7月26日から8月19日まで、チャールズ・ダーウィンの乗ったイギリス海軍のビーグル号が投錨した。ダーウィンはここを拠点にして、モンテビデオ一帯の調査旅行を行っている。彼はバイア・ブランカ(アルゼンチン)に近いプンタ・プラタで、巨大な化石貧歯類メガテリウムの、歯の一本ついた顎骨を発見した[7]。ビーグル号は第1回の測量調査を終えて1832年11月14日から27日までの間、2回目の停泊をしている。この間にダーウィンは、チャールズ・ライエルの『地質学原理』第2巻を受け取っている[8]。
19世紀から20世紀のはじめまで、モンテビデオはアルゼンチンとブラジルの影響を回避するためにイギリスの強力な影響下で発展し、1869年には内陸に向かう鉄道が開通した。
20世紀以降独立広場(1900年)
1860年に5万7913人だった人口は、多くの移民を迎えて、1884年には10万4472人になった。移民の大半はスペインとイタリアの出身者であったが、中欧からも多くの移民を受け入れた。1930年にはFIFAワールドカップが開催され、初代優勝国の栄冠を勝ち取った。
第二次世界大戦初頭の1939年12月13日、プンタ・デル・エステ沖に現れたドイツ海軍のポケット戦艦アドミラル・グラーフ・シュペーをイギリス海軍が追撃し、ラプラタ沖海戦が起きた。海戦の後、艦長のハンス・ラングスドルフ大佐はモンテビデオ港に退避した。この間にウルグアイの中立を巡るドイツ・イギリス・ウルグアイの外交戦が繰り広げられ、この町は一躍世界的に有名になった。ウルグアイは英寄りの中立を貫き、グラーフ・シュペーに72時間以内の退去を通告、その直後12月17日、モンテビデオ港外で同艦は自沈した。
1950年代には人口が90万人近くに達したが、その頃から経済停滞に苦しみ、さらに軍事政権(1973-85年)下の混乱の影響もあって街は衰退し、その後遺症は現在まで続いている。多くの貧しい地方出身者が都市に溢れ、特に旧市街に集中した。2002年にはブラジル、アルゼンチンから波及した経済危機により貨幣価値が下落、物価が高騰した。
2004年には135万人近い人口を数え、大モンテビデオ都市圏を含めると180万人になる。近年の経済回復と隣国との強力な貿易上の結びつきによって、ウルグアイの農業は発展してきており、将来の繁栄が望まれている。 ラプラタ川が大西洋に流れ込む河口部の左岸に位置する。
地理