モンテクリスト伯
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モンテ・クリスト伯.mw-parser-output .side-box{margin:4px 0;box-sizing:border-box;border:1px solid #aaa;font-size:88%;line-height:1.25em;background-color:#f9f9f9;display:flow-root}.mw-parser-output .side-box-abovebelow,.mw-parser-output .side-box-text{padding:0.25em 0.9em}.mw-parser-output .side-box-image{padding:2px 0 2px 0.9em;text-align:center}.mw-parser-output .side-box-imageright{padding:2px 0.9em 2px 0;text-align:center}@media(min-width:500px){.mw-parser-output .side-box-flex{display:flex;align-items:center}.mw-parser-output .side-box-text{flex:1}}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .side-box{width:238px}.mw-parser-output .side-box-right{clear:right;float:right;margin-left:1em}.mw-parser-output .side-box-left{margin-right:1em}}ポータル 文学フランス語版ウィキソースに本記事に関連した原文があります。モンテ・クリスト伯

『モンテ・クリスト伯』(モンテ・クリストはく、: Le Comte de Monte-Cristo)は、アレクサンドル・デュマ・ペールによる小説[1]。1844年から1846年にかけて連載・刊行された。

日本では『巌窟王』(がんくつおう)の題名でも知られている[2]
概要

1844年から1846年にかけて、フランスの当時の大手新聞のJournal des debats (ジュルナル・デ・デバ)に連載され、同じく1844年から1846年にかけて18巻本として出版された、壮大な復讐の物語である。
あらすじ
主人公のエドモン・ダンテスは、素朴な船乗りの青年で、愛する女性と婚約し幸せな日々を送っていたが、ある日無実の罪をでっちあげられ、自分では状況が理解できないままに、恋人と引き裂かれるようにして、監獄に送られてしまう。送りこまれた先は「誰ひとりとして生きて出た者はいない」という監獄で、薄暗く不潔な獄中で次第に生きる気力さえ失い、ついには食事を絶ち、餓死寸前の状態に陥る。だが何のめぐりあわせか、獄中で賢者のごとき神父と交流できたことで、自分の身に降りかかったことのカラクリや罠にはめた者たちが誰だったのか理解できるようになり、復讐への強い想いがダンテスを生き延びさせる。14年にもおよぶ獄中生活に耐えた後、脱獄に成功し、姿を消す。場面はかわり、それから9年後のこと、社交界は謎めいた貴族「モンテ・クリスト伯爵」の噂話でもちきりとなっている。実はそれは、神父から与えてもらった情報をもとに巨万の富を手に入れ、すっかり紳士となったエドモン・ダンテスだった。伯爵は、誰にもダンテスとは気づかれぬまま、かつて彼を陥れた者たちへと巧みに近づく。そして、ひとりまたひとりと、復讐を果たしてゆく。詳細は「#ストーリー」を参照
素材となった実話
この物語は、1807年から1824年にかけて起こった実在の事件から着想を得て描かれている。ピエール・ピコーという靴職人の男が、資産家の女性との結婚を妬んだ友人たちによる偽りの密告で逮捕され、フェネストレル要塞(英語版)に7年間収監された後、釈放後に様々な人物に扮してかつての友人たちを殺したという事件があった。パリ警察の記録係であったジャック・プシェがまとめた「復讐とダイヤモンド」(Le Diamant et la Vengeance)という犯罪記録にこの事件が記載されており、これを読んだデュマが内容を膨らませて書いた小説が「モンテ・クリスト伯」である。また、ヴィルフォール家の連続毒殺事件に関しては、同じ犯罪記録集に収録されている「ある家庭の犯罪」(Un crime de famille)との共通点が多いことが指摘されている[3]
高い人気と、翻訳、後の時代の翻案・映画化・ドラマ化など
新聞での発表当時から高い人気を博し、単行本もベストセラーになった。翻訳が行われた各国でも人気になり、その後も現在にいたるまで人気は高く、世界各国でさまざまな翻案小説、映画、ドラマ、舞台、ミュージカルなどが作られている。詳細は「#翻案、映画化、ドラマ化、派生作品」を参照
日本での翻案『巌窟王』
日本での受容史を語る上で外すわけにいかないのが、明治時代に黒岩涙香が翻案した『巌窟王』である。1901年(明治34年)3月18日から1902年(明治35年)6月14日まで『史外史伝巌窟王』の題名で『萬朝報』に連載し、1905年(明治38年)に大阪の出版社・青木嵩山堂が全4巻で刊行した。この翻案では、当時の日本人がなじみやすいように人名や船の名前を日本風に変えているが[注 1]、舞台はヨーロッパのままであり、ストーリーも原作とほぼ同じである。以後、日本では長く『巌窟王』の名で一般に親しまれた。昭和期以降は日本でも原作に沿った『モンテ・クリスト伯』の題名が一般的になってきたが、今日でも『巌窟王』という呼び方は日本人には広く親しまれていて、大抵の人に本作(原作・原案および翻案類など)のことだと理解されている。
ストーリーシャトー・ディフモンテクリスト島.mw-parser-output .ambox{border:1px solid #a2a9b1;border-left:10px solid #36c;background-color:#fbfbfb;box-sizing:border-box}.mw-parser-output .ambox+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+link+style+.ambox,.mw-parser-output .ambox+link+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+style+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+link+.ambox{margin-top:-1px}html body.mediawiki .mw-parser-output .ambox.mbox-small-left{margin:4px 1em 4px 0;overflow:hidden;width:238px;border-collapse:collapse;font-size:88%;line-height:1.25em}.mw-parser-output .ambox-speedy{border-left:10px solid #b32424;background-color:#fee7e6}.mw-parser-output .ambox-delete{border-left:10px solid #b32424}.mw-parser-output .ambox-content{border-left:10px solid #f28500}.mw-parser-output .ambox-style{border-left:10px solid #fc3}.mw-parser-output .ambox-move{border-left:10px solid #9932cc}.mw-parser-output .ambox-protection{border-left:10px solid #a2a9b1}.mw-parser-output .ambox .mbox-text{border:none;padding:0.25em 0.5em;width:100%;font-size:90%}.mw-parser-output .ambox .mbox-image{border:none;padding:2px 0 2px 0.5em;text-align:center}.mw-parser-output .ambox .mbox-imageright{border:none;padding:2px 0.5em 2px 0;text-align:center}.mw-parser-output .ambox .mbox-empty-cell{border:none;padding:0;width:1px}.mw-parser-output .ambox .mbox-image-div{width:52px}html.client-js body.skin-minerva .mw-parser-output .mbox-text-span{margin-left:23px!important}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .ambox{margin:0 10%}}

この節にあるあらすじは作品内容に比して不十分です。あらすじの書き方を参考にして、物語全体の流れが理解できるように(ネタバレも含めて)、著作権侵害しないようご自身の言葉で加筆を行なってください。(2019年11月)(使い方

謀略により逮捕
1815年2月、ナポレオン・ボナパルトフランス帝国の皇帝位を逐われてエルバ島へ追放されていた頃。マルセイユ船乗りエドモン・ダンテスは、航海中に死んだ船長の遺言でエルバ島に立ち寄り、ナポレオンの側近のベルトラン大元帥に小荷物を届け、同席していたナポレオンとも面会する。そしてベルトランから、パリノワルティエという人物に宛てた手紙を託される。マルセイユへ帰港したダンテスは、船主のモレルから新たな船長への昇格を約束される。それを聞いた会計士のダングラールは、若輩であるダンテスの出世を妬み、ダンテスの恋敵のフェルナンを唆して、検事のもとに「ダンテスがミュラからナポレオン宛ての手紙を委託されてエルバ島に届け、代わりにナポレオンから支持者に向けて送った秘密文書を預かった」という嘘の密告書を届けさせる。そんなこととは知らないダンテスは、婚約者・メルセデスとの婚約披露パーティーの最中に逮捕されてしまう。
取り調べ
ダンテスを取り調べたのは検事代理のヴィルフォールだった。ダンテスはヴィルフォールに対して、「自分は船長の遺言に従っただけで、預かった手紙もベルトラン大元帥の私的なものだ」と弁明する。ヴィルフォールはブルボン王家を支持する王党派でナポレオンを毛嫌いしていたが、ダンテスは単に船長の遣いをしただけであると理解し、安易にナポレオンと面会したことなどの不注意を咎めるものの、罰は軽くて済むだろうと話す。ところが、ベルトランの手紙の宛先はノワルティエだとダンテスが話した時、ヴィルフォールの態度が一変する。ノワルティエとはヴィルフォールの父親であり、検閲した手紙の内容はナポレオン軍の再上陸に備えて準備を進めるよう命じる、本当の秘密文書であった。ヴィルフォールは「王政復古の世の中において、身内にナポレオンの協力者がいることが明らかになると身の破滅につながる」と考え、ダンテスに対しては「君に不利な内容が書かれているから」と親切めかした事を言いつつ、手紙をその場で焼却する。そして宛先を知るダンテスを、政治犯が収容されるマルセイユ沖のシャトー・ディフ(イフ城)に裁判無しで投獄し、生涯出所できないよう手配する。
獄中の出会い
常に陽の当たらない土牢の奥でダンテスは無為の日々を過ごし、遂には餓死自殺を図るが、朦朧とした意識の中で穴を掘る微かな音に気付き、自分も穴を掘って音の主と出会う。それは隣の独房に投獄されていたファリア神父という老人だった。神父はダンテスの身の上話を聞き、ダングラールとフェルナンにはダンテスを陥れる動機と機会があること、ノワルティエとヴィルフォールが父子でありヴィルフォールにもまたダンテスを陥れる動機があることを看破する。自らの身に何が起こったのかを理解したダンテスは、3人への復讐を決意する。神父は無知無学であったダンテスに様々な学問を教え、一流の紳士へと育て上げていったが、やがて病に倒れ、モンテクリスト島に隠された財宝の在り処をダンテスに託して息を引き取る。神父は古文書から財宝の在処を知るも、これを発見する前にイタリア独立運動に携わる危険人物と誤解されて投獄されていたのである。神父の遺体と入れ替わることによって、ダンテスはシャトー・ディフからの脱獄に成功する。時は1829年2月、既に投獄から14年の月日が過ぎ、20歳前だった彼は34歳になっていた。
財宝発見
ジェノヴァの密輸船に拾われたダンテスは、優れた操船技術と豊富な知識で船員たちに受け入れられ、そのまま船で働くようになる。暫く後、他の密輸船との待ち合わせのために船がモンテクリスト島へ立ち寄った際、ダンテスは一計を案じてひとりだけ島に残る。探索の末に神父から教わった洞窟を発見し、300年以上誰の目にも触れられることがなかった奥底を掘り返すと、果たしてそこに財宝が詰まった箱を見つける。戻ってきた船でダンテスはリヴォルノへ渡り、そこで財宝の一部を売却して、自身の船を手に入れる。


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