モンツァ
Monza
紋章
行政
国 イタリア
州 ロンバルディア
県/大都市モンツァ・エ・ブリアンツァ
CAP(郵便番号)20900
市外局番039
ISTATコード108033
識別コードF704
分離集落
隣接コムーネ#隣接コムーネ参照
公式サイト ⇒リンク
人口
人口122,099 [1] 人 (2022-01-01)
人口密度3,697.7 人/km2
文化
住民の呼称monzesi
守護聖人聖ジョヴァンニ
(San Giovanni Battista
モンツァ(伊: Monza 発音[ヘルプ/ファイル])は、イタリア共和国ロンバルディア州にある都市であり、その周辺地域を含む人口約12万人の基礎自治体(コムーネ)。モンツァ・エ・ブリアンツァ県の県都であり、州内第3位の人口を持つ。ミラノの北東約15kmに位置するこの都市は、中世以来の古い歴史を持つブリアンツァ地方の中心都市であり、繊維業や出版業などの商工業が盛んである。
この都市にはモータースポーツのイタリアグランプリ(F1レースの一つ)が開催されるモンツァ・サーキットがあることで知られる。また、イタリア王位の象徴とされるロンバルディアの鉄王冠が納められたモンツァ大聖堂(英語版)や、モンツァ公園(英語版)、王宮(英語版)などの観光地もある。 ポー川の支流であるランブロ川 隣接するコムーネは以下の通り。括弧内のMIはミラノ県所属を示す。 ロンバルディアの平原地帯に位置する都市で、市域の中央をランブロ川が北から南へと流れる。 14世紀初頭、都市の防衛を目的として人工的にランブロ川から分かれるランブレット川(Lambretto)が掘削された。ランブレット川は都市の北の入口で分岐し、市壁(現存しない)をめぐって、都市の南側でランブロ川に再び合流する。また、19世紀にティチーノ川とアッダ川を結んで建設されたヴィロレージ運河
名称(イタリア語版): Munscia
ラテン語: Modoetia
地理
位置・広がり
隣接コムーネ
ヴェダーノ・アル・ランブロ - 北
ビアッソーノ - 北
ヴィッラサンタ - 北東
コンコレッツォ - 東
アグラーテ・ブリアンツァ - 南東
ブルゲーリオ - 南
セスト・サン・ジョヴァンニ (MI) - 南西
チニゼッロ・バルサモ (MI) - 南西
ムッジョ - 西
リッソーネ - 北西
地勢
市域の北部は広大なモンツァ公園(英語版)(6.88 km2)が広がっており、市域の約20%を占める。@media all and (max-width:720px){.mw-parser-output .mod-gallery{width:100%!important}}.mw-parser-output .mod-gallery{display:table}.mw-parser-output .mod-gallery-default{background:transparent;margin-top:.3em}.mw-parser-output .mod-gallery-center{margin-left:auto;margin-right:auto}.mw-parser-output .mod-gallery-left{float:left;margin-right:1em}.mw-parser-output .mod-gallery-right{float:right}.mw-parser-output .mod-gallery-none{float:none}.mw-parser-output .mod-gallery-collapsible{width:100%}.mw-parser-output .mod-gallery .title,.mw-parser-output .mod-gallery .main,.mw-parser-output .mod-gallery .footer{display:table-row}.mw-parser-output .mod-gallery .title>div{display:table-cell;text-align:center;font-weight:bold}.mw-parser-output .mod-gallery .main>div{display:table-cell}.mw-parser-output .mod-gallery .gallery{line-height:1.35em}.mw-parser-output .mod-gallery .footer>div{display:table-cell;text-align:right;font-size:80%;line-height:1em}.mw-parser-output .mod-gallery .title>div *,.mw-parser-output .mod-gallery .footer>div *{overflow:visible}.mw-parser-output .mod-gallery .gallerybox img{background:none!important}.mw-parser-output .mod-gallery .bordered-images .thumb img{outline:solid #eaecf0 1px;border:none}.mw-parser-output .mod-gallery .whitebg .thumb{background:#fff!important} 地中海性気候に属し、冷涼で短い冬と暑い夏のあるポー谷の典型的な気候である。降水は秋に多く、冬や夏には少ない。 気候分類では、zona E, 2404 GGに分類される[4]。また、イタリアの地震リスク階級では、zona 3 (sismicita bassa)に分類される[5]。 モンツァの歴史は、10世紀頃からはっきりとした姿を見せる。中世、ミラノとは長らくライバル関係にあったが、13世紀にはミラノと共同歩調を取るようになり、最終的にミラノ公国の支配下に入ってその後の歴史をミラノと共に歩んでいる。この都市の歴史の重要な要素となるのが、大聖堂(ドゥオモ)に納められ、イタリア王位の象徴とされたロンバルディアの鉄王冠の存在であり、多くのヨーロッパの君主たちと関わりを持った。1780年、ハプスブルク家統治下に完成した王宮は、その後もこの地の統治者の住まいとして利用された。1900年には国王ウンベルト1世の暗殺事件が発生している。 人々の暮らしの痕跡は青銅器時代にさかのぼる。19世紀末に、当時埋葬に用いた甕が見つかった。当時の人々は、川や沼地の上に水上住居を構えていた。 紀元前3世紀、ローマ人はインスブリア人 6世紀、ランゴバルド人がイタリアに侵入する。これはこの町にとって大きな出来事であった。ランゴバルド王国の統治下、アウタリ王の王妃テオデリンダは、ランブロ川のほとりに小さな教会の建設を行っている。この教会の場所は、現在、モンツァ大聖堂
モンツァ公園内を流れるランブロ川
モンツァ公園
ランブロ川に架かるレオーニ橋
気候
気候分類・地震分類
歴史ロンバルディアの鉄王冠
先史時代・古代
中世
ランゴバルド王国テオデリンダ王妃
伝承によれば、王妃の夢枕に鳩が現れてランブロ川のほとりを示し、「ここ」(ラテン語: modo)に教会を建てるように告げ、王妃は「はい」(etiam)と答えた。中世この地がModoetiaと呼ばれるのはそれに由来するのだという。 ベレンガーリオ1世(850年 - 924年)は、フリウーリ辺境伯(在位: 874年 - 924年)から、イタリア王および西ローマ皇帝(フランク・ローマ皇帝、在位: 888年 - 924年)を兼ねた人物である。ベレンガーリオはロンバルディアの鉄王冠を戴くことによってイタリア王に即位し、モンツァを帝国の首都とした。フン族の侵攻に対抗すべく、強固な要塞が築かれた。ベレンガーリオの治世、都市モンツァは一定程度の独立を享受することができた。独自の度量衡のシステムがあり、財産を集積した。ベレンガーリオはモンツァ大聖堂に対して、有名な鉄王冠も含め気前よく寄進を行った。 980年、ドイツからイタリアを訪れた神聖ローマ皇帝オットー2世をモンツァは迎えている。1000年にはオットー3世によってモンツァとその属領は保護された。10世紀、モンツァは経済的にも発展し、戴冠式を行う場所として以後2世紀にわたる名声を得ることになった。このことは、ライバルであるミラノを刺激した。1018年に、ミラノ大司教アリベルト 12世紀、モンツァには7000人の住民がいたと推計されている。重要な産業は農業であったが、手工業も発展を見せ始めていた。 1128年、モンツァのサンミケーレ教会でホーエンシュタウフェン家のコンラート3世が神聖ローマ皇帝として戴冠した。1135年、コンラートはロタール3世によって王位の放棄を余儀なくされる。同年、教皇インノケンティウス2世はモンツァの教会を保護して資産と特権を認めた。翌年、ロタールはモンツァの聖職者のミラノからの独立を認めた。これによって、モンツァは自治を取り戻した。 「バルバロッサ」の名で知られる皇帝フリードリヒ1世は、おじのコンラート3世とともに1158年と1163年の二度にわたってモンツァを訪れている。この時期、ロンバルディア同盟の盟主であるミラノは皇帝に対して強く敵対的な教皇派(ゲルフ)の都市であり、ミラノと敵対関係にあるモンツァは皇帝派(ギベリン)の拠点として重要な位置を占めることになった。フリードリヒはモンツァが自らの財産であることを明言するとともに、課税に関する特権を与えている。1185年、フリードリヒ1世がロンバルディア同盟とコンスタンツ条約を結んで和睦すると、モンツァの独立も失われ、聖堂の財産管理もミラノに移されることになった。 1185年、フリードリヒ1世の子であるハインリヒ6世は、シチリア女王コスタンツァとの結婚に際し、モンツァで戴冠を行っている。 12世紀以後、モンツァは中世都市として変容しつつあった。農業と並んで、靴の製造などの手工業も発展を見せるようになった。また、市壁の外では羊毛の生産が開始された。13世紀に建設された市庁舎「アレンガーリオ
10 - 11世紀
12世紀:教会と皇帝
13世紀:市民と教会、ミラノへの編入アレンガーリオモンツァ大聖堂
1221年、政治的な理由により、ミラノ大司教エンリコ・ダ・セタラ(Enrico da Settala)はモンツァの市長(ポデスタ)を破門しているが、ミラノのコムーネはモンツァのコムーネを支援している。
1242年、皇帝フリードリヒ2世を支援するために、モンツァの首席司祭アルベリコ・ダ・オレノ(Alberico da Oreno)は都市の宝物を借り受けた。しかし不幸にして、宝物が都市に返却された際には大きな黄金の盃が紛失されていた。1254年、フリードリヒ2世との戦いを展開するミラノは、かつて課した破門を取り消すことを条件としてモンツァから黄金の盃を借り出した。この盃に関しては、返却時に宝石17個が紛失されていたことが1275年の財産目録に記載されている。
モンツァは次第にミラノと共同歩調を取るようになる。1255年にモンツァは皇帝派によって略奪された。1259年、エッチェリーノ3世・ダ・ロマーノはモンツァ攻略を図るも撃退され、周辺の村落を焼き討ちにしている。
聖堂が所有していた宝物は、資金を借り受けるための担保としてさまざまな当事者の手を渡った。1273年にはモンツァにあった聖アガタ謙遜者団(Umiliati di Sant'Agata)のもとに移り、1311年には銀行家たちの手に渡って安全のためアヴィニョンに移された。