モンチェニージオ
Moncenisio
行政
国 イタリア
州 ピエモンテ
県/大都市 トリノ
CAP(郵便番号)10050
市外局番0122
ISTATコード001157
識別コードD553
分離集落
隣接コムーネ#隣接コムーネ参照
地震分類zona 3A (sismicita bassa)
気候分類
モンチェニージオ(イタリア語: Moncenisio)は、イタリア共和国ピエモンテ州トリノ県にある、人口約30人の基礎自治体(コムーネ)。
モン・スニ峠(モンチェニージオ峠)南麓に位置する、フランスとの国境の村である。2012年1月1日現在のコムーネ人口は42人で、ペデジーナ(ソンドリオ県)、モルテローネ(レッコ県)に次いでイタリアで3番目に少ない。 この集落のもともとの名はフェッレーラ(Ferrera)で[4]、コムーネの名称は1940年の終わりまでフェッレーラ・チェニージオ(Ferrera Cenisio)であった[5]。 1960年代の終わり、モンチェニージオ・ダムが建設された際に、コムーネの名はフェッレーラから現在のモンチェニージオに変更された[4]。 トリノ県西部、ヴァル・ディ・スーザの支脈にあたるチェニスキア渓谷 (it:Val Cenischia かつてはフェッレーラと呼ばれた集落は、アルプス越えの主要道路であったモン・スニ峠(モンチェニージオ峠)の南側、旧街道沿いに所在しており、チェニスキア川に沿って広がっている。コムーネには2つの自然の池がある。 隣接するコムーネ、およびそれに相当する行政区画は以下の通り。FRで始まるものはフランス領で、FR-73はサヴォワ県に属する。 フェッレーラをはじめとするチェニスキア渓谷の村々の歴史は、モン・スニ峠(モンチェニージオ峠)の歴史でもある。16世紀頃、モン・スニ峠の交通が増加すると、旅人に対する宿泊所や休憩所の提供、馬車の修理や蹄鉄や交換などといった、様々な仕事の需要が増大した[4]。1800年頃のフェッレーラ集落には300人ほどが暮らし、4軒の宿屋が営業しており、多くの村人が同行ガイドやポーター、荷馬の賃貸、御者などの形で峠越えの交通と結びついて暮らしていた[4]。また、牧畜業も営まれていた[4]。 19世紀初頭、ナポレオンがモン・スニ峠越えの街道を改良して新道(現在の国道25号線 (it:Strada statale 25 del Moncenisio
名称
地理
位置・広がり
隣接コムーネ
ノヴァレーザ - 南東
ヴェナーウス - 南
ヴァル=スニ
ヴァル・ディ・スーザ地図。中央上部に示された大きな湖がモン・スニ(モンチェニージオ)湖である。傍らにモン・スニ峠越えの国道が赤線で示されている。白線は伊仏国境線。
歴史
1860年、サルデーニャ王国(翌年にイタリア王国となる)はサヴォワ地方をフランスに割譲したため、モン・スニ峠は国境となった。周辺地域では多くの要塞建設が進められた。1947年、第二次世界大戦の講和条約であるパリ条約で、イタリアは峠の南東側の領域(集落を除くこのコムーネの大部分)をフランスに割譲した。
1960年代の終わり、フランスによってモン・スニ(モンチェニージオ)に巨大なダムが建設された際に、このコムーネの名はフェッレーラから現在のモンチェニージオに変更された[4]。
脚注^ 国立統計研究所(ISTAT). “ ⇒Total Resident Population on 1st January 2020 by sex and marital status” (英語). 2020年12月15日閲覧。
^ 国立統計研究所(ISTAT). “ ⇒Tavola: Popolazione residente - Torino (dettaglio loc. abitate) - Censimento 2001.” (イタリア語). 2013年3月29日閲覧。
^ 国立統計研究所(ISTAT). “ ⇒Tavola: Superficie territoriale (Kmq) - Torino (dettaglio comunale) - Censimento 2001.” (イタリア語). 2013年3月29日閲覧。
^ a b c d e f g h “ ⇒Storia”. Comune di Moncenisio. 2014年4月24日閲覧。