モンゴルフィエ兄弟
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ジョゼフ=ミシェル・モンゴルフィエ
Joseph-Michel Montgolfier

生誕 (1740-08-26) 1740年8月26日
フランス王国アルデシュ県アノネー
死没 (1810-06-26) 1810年6月26日(69歳没)
フランス帝国、バラリュック=レ=バン
国籍 フランス帝国
親父:ピエール・モンゴルフィエ
母:アンヌ・デュレ
業績
成果熱気球水槌ポンプの発明

モンゴルフィエ兄弟(モンゴルフィエきょうだい)は、兄ジョゼフ=ミシェル・モンゴルフィエ(フランス語: Joseph-Michel Montgolfier 、17408月26日 - 1810年6月26日)と弟ジャック=エティエンヌ・モンゴルフィエ(フランス語: Jacques-Etienne Montgolfier 、1745年1月6日 - 1799年8月2日[1])の2人で熱気球を発明し、世界で初の有人飛行を行なったフランスの兄弟[2][3]。その功績から1783年12月、兄弟の父ピエールがルイ16世により貴族に叙せられ「ド・モンゴルフィエ」(de Montgolfier)を名乗るようになった。
生い立ち

ジャック=エティエンヌ・モンゴルフィエ
Jacques-Etienne Montgolfier

生誕 (1745-01-06) 1745年1月6日
フランス王国アルデシュ県アノネー
死没 (1799-08-02) 1799年8月2日(54歳没)
スイスヌーシャテル
国籍 フランス共和国
子供アレクサンドリーヌ
親父:ピエール・モンゴルフィエ
母:アンヌ・デュレ
業績
成果熱気球の発明

兄弟は、フランスリヨンの南方アルデシュ県の町アノネー(en)で製紙業者の息子に生まれた。父ピエール・モンゴルフィエ (1700?1793年) と母アンヌ・デュレ (1701?1760年) は全部で16人の子をもうけた。ピエールは長男レーモン(後のレーモン・ド・モンゴルフィエ、1730?1772年)を後継者とした。

ジョゼフは12番目の子で、典型的な発明家気質を備えた夢見がちな変わり者で、事業には向かない性格だった。エティエンヌは15番目の子で、もっと普通で実務的な気質だったが、兄たちと喧嘩が絶えず、建築家にするためにパリに修行に出された。しかし1772年にレーモンが突然亡くなり、製紙業の後継者とするべくアノネーに呼び戻された。その後10年間、エティエンヌは一家の事業に様々な技術革新を導入する才能を発揮した。フランス政府もその業績に注目し、モンゴルフィエの製紙工場はフランスの製紙業のモデルとして認められるようになった。
初期の実験

ジョゼフは1777年頃までに、洗濯物を乾燥させるために火を焚いたとき、その上の洗濯物が上昇する気流でうねってポケットのような形になることに気付き、熱気球を思いついた[4]。1782年11月、アヴィニョンに住んでいたジョゼフは、最初の決定的な実験を行った。数年後彼が語ったところによると、ある日の夕方、焚き火を眺めながら当時最大の軍事問題だったジブラルタル要塞の攻略法を考えていた(ジブラルタル包囲戦参照)。その要塞は洋上からも陸上からも難攻不落だった[5]。焚き火から燃えカスが舞い上がるのを見て、ジョゼフは軍団を同じように空中に浮かび上がらせることができるのではないかと考えた。当時は暖められた空気が上昇することがわかっておらず、ジョゼフは物を燃やした煙の中に上昇させる成分が含まれていると考えた。そのため、煙を「モンゴルフィエのガス」と呼んだ。

沈思の末、ジョゼフは細い木材で1m×1m×1.3mの大きさの枠を作り、側面と上面を軽いタフタ生地で覆い、箱のように形成した。何枚かの紙を丸めてその下に置き、点火するとすぐさまその仕掛けが浮き上がり、天井にぶつかった。もっと大きな仕掛けを作るため、ジョゼフは兄弟たちに「タフタと綱をすぐに持ってきてくれ。そうしたら世界で最も驚異的な風景を見られるぞ」と手紙を送った。それに従ったエティエンヌと共に、兄弟で長さを3倍(体積にして27倍)にした同様の仕掛けを作った。その上昇力はすさまじく、1782年12月14日に行った最初の実験で綱が足りなくなり制御を失ってしまった。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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