モンゴルの歴史
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モンゴルの歴史(モンゴルのれきし)では、モンゴル高原を中心に興亡した国家民族に関する通史を扱う。当該地域には2023年現在、モンゴル国および中華人民共和国内の内モンゴル自治区が存在する。
先史時代・モンゴル帝国以前
土方、鬼方、馬方

紀元前1300年代後半と推定される武丁の時代の卜辞甲骨文字)に、「土方」と呼ばれる異民族が殷の辺境を侵略したことが記されており、代の『周礼』『易経』には土方・鬼方・馬方と呼ばれる民族が記されている[1]。しかし、これらがモンゴル高原の遊牧民であるかは不明。
山戎、??、葷粥

中国の歴史書『史記』によると、「唐(帝堯)や虞(帝舜)より以前には、山戎(さんじゅう)・??(けんいん)・葷粥(くんいく)が北方の草原地帯に住み、遊牧生活を営んでいた。」[2] とあり、中国の伝説的時代(三皇五帝)に山戎・??・葷粥といった遊牧民がいたとされる。しかし、これらの民族名は伝説時代にとどまらず、西周時代末(紀元前800年頃)の?季子白盤(かくきしはくばん)という青銅器の銘文に「??(けんいん)」の名が見え、周代の詩篇である『詩経』采微にも「??」の名が見えること、『春秋左氏伝』荘公三十年・『史記』世家に、紀元前663年の出来事として桓公が山戎を征伐した事件が共通して記されていることなどから、周代には実在した遊牧民であることがわかる[1]
戎、狄、胡

中国の春秋戦国時代、北方の草原地帯のみならず、中国本土にも(あるいは?)といった異民族が入りこんで点在していた。後代、専ら北の異民族を狄(北狄)、西の異民族を戎(西戎)と呼んだが、この時代においては両族とも北西問わず入り乱れて生活しており、多くの部族に分かれていた。戎は北戎・西戎に大別され、北戎では上記の山戎が有名であり、西戎では西周を滅ぼした犬戎が有名である。狄は周の王室と結びつき、その王位継承問題に介入した。紀元前635年によって討伐されると赤狄・白狄に分かれた。は後の匈奴の代名詞となり、イラン系ソグド人をも指す用語となるが、春秋時代オルドス地方には林胡という部族がおり、の北には東胡という部族がいた。いずれの種族もその多くは戦国時代といった強国に併合され、中国人と同化していった。[3]
匈奴、月氏、東胡秦とその周辺民族。

始皇帝によって中国が統一されると、北の草原地帯では匈奴月氏東胡の3族が盛んとなり、たびたび中国に侵入したが、秦の将軍蒙恬によって阻まれていた。しかし、紀元前210年に蒙恬と始皇帝が亡くなると、中国では内乱が頻発したため、国の防衛ができなくなり、その隙をついて匈奴は河南の地(オルドス地方)に侵入し、その地を手に入れた。匈奴の君主(単于)は頭曼単于といい、冒頓という太子がいたが、冒頓より末の子を寵愛したため、頭曼は冒頓を廃すために西の強国である月氏に人質として送りつけた。しばらくして、頭曼は冒頓がいるにもかかわらず月氏に攻撃をしかけた。これにより冒頓は月氏に命を狙われたが、命からがら逃げかえり、自分に忠実な者を集めて父の頭曼を殺した。こうして新たに単于となった冒頓は東の強国である東胡に侵攻して併合し、西の月氏を撃退し、一大強国を築き上げた。[3]
匈奴単于国紀元前2世紀匈奴単于国。詳細は「匈奴」を参照

冒頓単于のもとで史上初めてモンゴル高原が統一されると、その周辺国も次々と匈奴の支配下に入っていった。モンゴル高原の北、バイカル湖の南の地域(ザバイカリエ)には渾?・屈射・丁零鬲昆・薪犁といった諸族がおり、冒頓単于はこれらを征服、続いて南の新興国である漢帝国に侵攻し、高祖劉邦を撃退。西の月氏を河西地域から追い出し、その支配下にあった[4]楼蘭烏孫・呼掲[5]および西域26国を匈奴の支配下に入れた。こうして冒頓単于は一代にしてモンゴル高原から西のジュンガル盆地タリム盆地までをその支配下に置き、大帝国を築いた。漢の高祖を撃退して以降、匈奴は毎年漢に貢納品を要求するようになり、しばらくは中国より優位な立場にあった。しかし、漢で武帝(在位:前141年 - 前87年)が即位すると、漢は今までの弱腰外交をやめて攻勢に転じ、元朔2年(前127年)になって将軍の衛青に命じて河南の地を奪取させ、元狩2年(前121年)には驃騎将軍霍去病に1万騎をつけて匈奴を攻撃させ、匈奴の休屠王を撃退。つづいて合騎侯の公孫敖とともに匈奴が割拠する祁連山[6]を攻撃した。これによって匈奴は重要拠点である河西回廊を失い、渾邪王と休屠王を漢に寝返らせてしまう。さらに元狩4年(前119年)、伊稚斜単于(在位:前126年 - 前114年)は衛青と霍去病の遠征に遭って大敗し、漠南の地(内モンゴル)までも漢に奪われてしまう。ここにおいて形勢は完全に逆転し、次の烏維単于(在位:前114年 - 前105年)の代においては逆に漢から人質が要求されるようになった。こうした中、匈奴に服属していた近隣諸族は衰退をみせる匈奴に対して反乱を起こす。かつて東胡の一部であった烏桓族は歴代単于の墓をあばいて冒頓単于に破られた時の報復をし、イリ地方の烏孫族は漢と同盟を組んで匈奴を攻撃、北の丁零族もそれに乗じて攻撃を仕掛けた。これによって匈奴は大いに弱体化して内乱が頻発し、一時は5人の単于が乱立する事態となった。この事態を収束したのが呼韓邪単于(在位:前58年 - 前31年)であり、彼は内乱を鎮めて匈奴を統一すると、漢に称臣して漢と好を結んだ。以降、呼韓邪単于とその息子たちによって両国の平和が保たれた。[7]
匈奴の南北分裂

呼韓邪単于以降、匈奴と漢の関係は良好であったが、中国で新都侯の王莽が政権を掌握し、漢を倒してを成立させると、中国内外に暴政を布いたため、近隣諸国から反感を買った。これに対して烏珠留若?単于(在位:前8年 - 13年)は呼韓邪単于以来続いてきた和平を決裂させ、たびたび中国に侵入略奪を繰り返すようになる。地皇4年(23年)9月、更始軍が長安を攻め、王莽を殺害、新朝が滅亡する。25年には光武帝のもとで後漢が成立する。この間にも匈奴の侵入略奪は続いており、呼都而尸道皋若?単于(在位:18年 - 46年)は後漢に対し、新を倒せたのは匈奴のおかげだと主張、中国に対して優位な立場に立とうとした。しかし、彼の子の蒲奴単于(在位:46年 - ?年)の時代になり、匈奴国内で旱(ひでり)と蝗(いなご)の被害が相次ぎ、国民の3分の2が死亡するという大飢饉に見舞わされた。これに乗じて烏珠留若?単于の子である右??日逐王の比は匈奴に対して独立を宣言し、南匈奴を建国(これに対し、もとの匈奴を北匈奴と呼ぶ)。


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