モンゴルの樺太侵攻
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モンゴルの樺太侵攻
モンゴル帝国の東方遠征中

樺太とその周辺の地勢

時1264?1308
場所サハリン島(樺太)、外満洲間宮海峡(韃靼海峡)
結果ニヴフに対するアイヌの侵攻は撃退され、樺太アイヌ元王朝朝貢を開始。

衝突した勢力
元朝
ニヴフ樺太アイヌ
指揮官
タカラ
タタルタイ
タキシアラ
ヨウロタイ(楊兀魯帯)ほかウァイン
イウシャンヌ
ほか

モンゴルの樺太侵攻(モンゴルのからふとしんこう)とは、13世紀半ばから14世紀初頭にかけて断続的に行われたモンゴル帝国元朝)による樺太アイヌへの攻撃を指す。史料が少ないこともあり、その実体には不明な点が多い。同時期にモンゴルによって日本九州北部に対して行われた元寇文永の役・弘安の役)と比較されて「北からの蒙古襲来」[1]「もうひとつの蒙古襲来」[2]などと呼ばれるが、両者の間に関連性があるかどうかは疑わしい(後述)。
背景樺太とその周辺

樺太(サハリン島)には、後のニヴフ(ギリヤーク)につながると思われるオホーツク文化(採集・漁撈を中心とする)や、アイヌが担い手だったと思われる擦文文化(雑穀農耕を含む採集生活を中心とし、土器を製作する)などの遺跡が混在しており、中世にもニヴフ・アイヌが混住していたと思われる[3]。オホーツク文化・擦文文化の終了をどの時期とするかは諸説あるが、13世紀ないし14世紀頃を画期とする説が有力であり、日本やモンゴル・ツングース(女真族)等周辺民族との交易を主体とする文化に切り替わりつつあった[4]

黒竜江(アムール川)下流域に関しても残存史料が少なく、どのような民族が支配していたか不明瞭な部分が多いが、契丹)やなどの王朝が支配を伸ばしていたと思われる。元代の地誌である『元一統志』によれば、前代の王朝によって奴児干(ヌルガン)城が築かれた址が残っていたことが記されている[5]。『高麗史』には忠烈王13年(1287年)9月に「東真の骨嵬」に駐在していたモンゴルの将軍がいたことが記されている。東真は東夏または大真国とも書かれる金朝の派生国家であり、わずか18年しか存続しなかったが、骨嵬が金の構成民族である女真(ツングース系)の影響下にあったことが窺える[6]

その後、モンゴル帝国もこの地域に勢力を広げ、1260年に大カアンとして即位したクビライ(世祖)の時代に入ると、アムール川下流域へのモンゴル勢力の伸張が行われ、黒竜江(アムール川)下流域に勢力を伸ばし、河口部に近く支流のアムグン川が合流する現在のトィルに「東征元帥府」を設置した[7][注釈 1]。東征元帥府の機能は、先住民(ニヴフ)の支配、流刑囚の管理、屯田の経営などと考えられる[8]

戦いの原因は、モンゴルがニヴフとアイヌの人たちとの交易をやめさせようとしたために起きたという説がある[9]
元朝によるアイヌ攻撃
1264年の遠征

アムール川下流域から樺太にかけての地域に居住していた「吉里迷」(ギレミ、吉烈滅)は、モンゴル建国の功臣ムカリ(木華黎)の子孫であるシディ(碩徳)の遠征により1263年(中統4年)にモンゴルに服従した[10]。翌1264年(至元元年)に吉里迷の民は、「骨嵬」(クイ)や「亦里于」(イリウ)が毎年のように侵入してくるとの訴えをクビライに対して報告した。

ここで言う吉里迷はギリヤーク(ニヴフ)族、骨嵬(苦夷とも)はアイヌ族を指しているとされる[5][注釈 2]。亦里于に関してはかつてツングース系民族(ウィルタ)と見る説が有力であったが、近年では骨嵬とは別のアイヌ系集団であったとする説が唱えられている[注釈 3]。この訴えを受け、元朝は骨嵬を攻撃した[12]。これがいわゆる「北からの蒙古襲来」の初めであり、北九州への侵攻(文永の役、1274年(至元11年))より10年早かった。
1284-1286年の連続攻撃

この後、元によるアイヌ攻撃は20年ほどのあいだ、見られなくなる。ただし1273年には塔匣剌(タカラ)が征東招討司に任命され、アイヌ攻撃を計画したが[13]、賽哥小海(間宮海峡)の結氷を待つとの理由で、結局実行には移されなかった[注釈 4]

しかし北九州への2度目の侵攻(弘安の役、1281年)の失敗後、1284年に聶古帯(ニクタイ)を征東招討司に任じ、アイヌ攻撃が命令された[15]。この計画はいったん見合わせとなったが、同年の冬に征東招討司による骨嵬征伐が20年ぶりに実行に移されている[16]

その翌年(1285年)にも元朝は征東招討司塔塔児帯(タタルタイ)・兀魯帯(ウロタイ)に命じて兵力1万人で骨嵬(アイヌ)を攻撃させた[17]

さらにその翌年(1286年)にも3年続けてアイヌ攻撃が行われた。このときの侵攻では「兵万人・船千艘」を動員したとされ[18]、前年もほぼ同様の規模であったという[5]。この遠征には兵站確保のため、屯田も設置されたが、翌1287年のナヤンの乱などの動揺もあり、長くは続かなかった[19]
アイヌの樺太撤退と反撃

これ以降、元からアイヌへの攻撃は止むが、元の勢力圏外からアイヌによる攻撃があったことが元側の記録に頻出する[注釈 5]中村和之はこれらの動きから、元によるアイヌ攻撃は、アイヌによる黒竜江流域への侵入を排除するために行われ、アイヌの根拠地を攻めて滅亡させる目的ではなかったとし、1284年からの3年連続の攻撃により、アイヌ勢力は樺太からほぼ排除されてしまったと主張する[20]。元朝は、樺太南端に前進基地として「果夥(クオフオ)」城を設けている。西能登呂岬に遺跡が残る白主土城は、アイヌ伝統のチャシとはかなり構造の違う方形土城で中国長城伝統の版築の技法が使われており、ここで言う「果夥」であった可能性が高い[20][21]。元軍はこの果夥を拠点として、宗谷海峡を北上しようとするアイヌを牽制したものと思われる。これ以降、アイヌは樺太に対して散発的な侵入しか行うことはできなかった。

1296年には、ニブフのオフェンとブフリがアイヌに投降して悪事をなしたのと記録が『元分類』巻41にある。

1297年大徳元年)にも、5月にアイヌのウァインがニブフの船にのり大陸のチリマ岬に渡り乱をなすと、元軍は同年6月にアムール河下流域のヒチトルでアイヌ軍を破り、同年7月には元軍がアムール川下流域のフリ川に攻め入ったアイヌを破っている[22]。さらに、8月にはアイヌのブフスらが海を渡ってニヴフの打鷹人を捕虜にしようとしているとの訴えが、ニヴフから元朝に対してなされている[23]。日本では鷲羽は、アイヌ交易の代表品として捉えられており[24]、アイヌは鷹羽・鷲羽流通の掌握を狙っていたと思われる[25]


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