モンゴルのヴォルガ・ブルガール侵攻
[Wikipedia|▼Menu]

モンゴルのヴォルガ・ブルガール侵攻
チンギス・カンの西征、バトゥの西征(英語版)中

時1223年、1229年-1232年、および1236年
場所現在のロシアタタールスタン共和国
結果モンゴル帝国の圧勝

衝突した勢力
モンゴル帝国ヴォルガ・ブルガール
指揮官
スブタイ
ジェベ
ククダイ
ブベデ
バトゥガブドゥッラー・チェルビル(ポーランド語版)
プレシュ(英語版)
プルガス(英語版)
bg:Мир-Гази
バヤン
ジク
バチュマン

モンゴルのヴォルガ・ブルガール侵攻(モンゴルのヴォルガ・ブルガールしんこう)は1223年に始まったモンゴルによるヴォルガ・ブルガールへの侵攻。この時はモンゴルを退けたヴォルガ・ブルガールであったが、1236年バトゥによる征西軍による攻撃では主要都市を破壊され大打撃を受けた。
モンゴルの攻撃
1223年詳細は「チンギス・カンの西征」を参照

ヴォルガ・ブルガールがモンゴル人の軍団と遭遇したのは1223年のことであった。スブタイおよびジェベの率いるモンゴル帝国軍は、ホラズムを出てカフカスを迂回し、キプチャク草原に入って5月31日カルカ河畔の戦い(現在のウクライナ東南部ドネツィク州付近)でルーシ諸国とキプチャクの連合軍を大敗させた。この時点で、チンギス・ハンの軍は負け知らずであった。彼らは分隊をヴォルガ川を遡ったところにあるヴォルガ・ブルガールへと派遣した。しかしその年の秋、ヴォルガ・ブルガール南部のケルネク(現在のサマーラ州の、ヴォルガ川屈曲部付近)で、ヴォルガ・ブルガールはモンゴル軍を大敗させた(サマラ屈曲部の戦い(英語版)あるいはケルネクの戦い)。ブルガールの王(iltabar)、ガブドゥッラー・チェルビル(ポーランド語版)(Ghabdulla Chelbir)率いる軍は、モルドヴィン人の公(inazors)であるプレシュ(英語版)(Puresh)およびプルガス(英語版)(Purgaz)の軍と連合し、スブタイ軍を待ち伏せしてさんざんに打ち破ったという。この戦いについてはブルガールの口承による部分が多く、戦いの実際や被害については不明な点も多い。この戦いの後、モンゴル軍は中央アジアに戻り、ブルガールには戻らなかった。
1229年-1232年

1229年、モンゴル軍はククダイ(Kukday、Кукдай)とブベデ(Bubede、Бубеде)の指揮の下、再びブルガールに侵攻してきた。この戦いでは、ウラル川のブルガールの前哨を破ってウラル上流の渓谷を占領している。

1232年には、モンゴル騎兵軍がバシキリア南東部を征服し、ヴォルガ・ブルガールの南部をも手に入れた。

1235年ハンガリードミニコ会托鉢修道士ユリアヌス(ハンガリー語版、英語版)(Friar Julian, ハンガリー語: Julianus barat)は、東方の故郷に残ったとされるマジャール人を探すためウラル山脈方面へと旅に出て、テュルク系遊牧民ブルガール人ヴォルガ川中流域に建てた国家ヴォルガ・ブルガールにたどり着いた。彼はヴォルガ・ブルガールの首都から数日の場所にマジャール人らしき人々がいると教えられ、その人々と会い会話がかろうじて通じることを確認したという。マジャールの故郷を確認したユリアヌスは、「タタール」という東方の恐ろしい民族の噂を聞きながらハンガリーへ戻った。
1236年詳細は「バトゥの西征(英語版)」を参照

この危機にあたり、内戦を続けていたヴォルガ・ブルガールの武将や首長たちは、共通の敵に対して連合を組むことに失敗していた。そこへ1236年の大規模侵攻が起こる。バトゥ率いるヨーロッパ遠征軍がイリ渓谷を出てまずヴォルガ・ブルガールに襲い掛かり、首都ビリャルに45日間にわたる攻城戦(ビリャル包囲戦(英語版))を展開、これを陥落させ市民数万と守備軍を全員処刑した。さらにブルガール、スアル(英語版)、ジュケタウ(英語版)をはじめ、主だった都市や要塞を陥落させた。住民の多くは殺されるか奴隷に売られていった。ブルガールの武将たちは次々とモンゴル軍に帰順した。

ユリアヌスは、前回の訪問から2年後の1237年にヴォルガ・ブルガールを再訪した。しかし、そのときにはすでに廃墟しか残っていなかった。ユリアヌスは、ハンガリーに「タタール」の危機が迫っていることを知らせるために急いで戻ったという。
反乱と服属

モンゴル軍がヴォルガ・ブルガールを離れてルーシ侵攻に着手すると、帰順したはずのヴォルガ・ブルガールの武将らは反乱を起こした(例えばバヤンとジクによる反乱 Rebellion of Bayan and Cik)。またキプチャクのオルベルリ部(олбурлик、Kimek Khanate)の首長バチュマン(Bacman)もヴォルガ流域で盛んに反乱を起こした。しかし、ルーシ侵攻中のバトゥやモンケ、スブタイらがこれを制圧した。

ヴォルガ・ブルガールはジョチ・ウルス(金帳汗国)の一部に編入され、ジョチ・ウルス支配下でいくつもの公国に分割された。これら小さな公国はおのおの自治を享受し、ジョチ・ウルスへの貢納を行う属国となった。
人口の移動

研究によれば、この征服活動でヴォルガ・ブルガールの人口の8割が殺されたというものもある。残った人口の多くは北へ移動した。

ヴォルガ・ブルガールの生き残った農民たちは、ステップ地帯を離れて移住させられ、多くの人々がウラル山脈から流れるヴォルガの東側の大きな支流カマ川沿い、およびその北方の土地(現在のチュヴァシ共和国およびタタールスタン共和国の範囲)に移住した。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:23 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef