モンゴルのポーランド侵攻
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モンゴルのポーランド侵攻

図は1241年のレグニツァの戦い

時1240年後半-1241年
場所主にポーランドハンガリー
結果モンゴル軍の圧勝、しかし領土とせず撤退

衝突した勢力
モンゴル帝国ポーランド王国
ハンガリー王国
神聖ローマ帝国
聖ヨハネ騎士団
ドイツ騎士団
テンプル騎士団
外国人義勇兵
その他
指揮官
バイダル
コデン
オルダヘンリク2世を筆頭に多数
戦力
1万人?7万人[1]1万人以上?6万人未満
被害者数
小規模規模甚大

モンゴルのポーランド侵攻(モンゴルのポーランドしんこう)は、「バトゥの西征」(モンゴルのヨーロッパ侵攻(英語版))のうち、1240年後半から1241年にかけての「トゥルスクの戦い」、「フミェルニクの戦い」、「レグニツァの戦い」、「モヒの戦い」などのシロンスク公ヘンリク2世率いるキリスト教騎士修道会ポーランド軍を壊滅させた諸戦闘の総称である。
前史

バトゥに率いられたモンゴルの西方遠征軍は、1236年に中央アジアを出てヴォルガ・ブルガールを侵攻し1237年から1240年にかけてルーシ侵攻を行い、ヴォルガ・ブルガールルーシ諸国を完全に圧倒した。モンゴル軍はこれで征服を終えることはなく、さらに西を目指し、ポーランドおよびハンガリーへと侵入した。

モンゴルのヨーロッパ侵攻(英語版)は全ヨーロッパを震撼させた。教皇グレゴリウス9世は、全キリスト教徒に対し、ポーランドを救援してこの異教徒襲来と戦うべしという詔書を発している[2]。騎士修道会は、ポーランド諸王侯と共同防衛をするよう命じられる。
侵攻

ポーランド侵攻軍はチャガタイ家のバイダル、オゴデイ家のコデン、ジョチ家の長兄オルダの3人の将軍に率いられ、1240年後半には偵察活動に入った。彼らに率いられたモンゴル軍のトゥメン(万人隊)は既に占領していたヴォロディームィル=ヴォルィーンシキー(当時キエフ・ルーシ領で、後にハールィチ・ヴォルィーニ大公国領となったヴォルィーニ公国の街。現ウクライナヴォルィーニ州)から行軍を開始し、最初にルブリンを略奪し、1241年2月13日にバイダルとコデンは凍ったヴィスワ川を渡河してクラクフ公(英語版)ヴウォジミェシュ(ポーランド語版)率いるポーランド軍の守るサンドミェシュ(英語版)(ポーランド語: Sandomierz、: Sandomir サンドムィル)を包囲し、陥落させた(トゥルスクの戦い)。

モンゴル帝国のヨーロッパ侵攻軍は3軍団を擁していたが、モンゴル軍はサンドミェシュから複数の部隊に分かれて行動した。バトゥ率いるモンゴル軍本隊は、カルパチア山脈のベレッケ峠(英語版)からパンノニア平原に入ってハンガリーに進撃した(モヒの戦い)。

オルダの支隊はポーランド中部と中北部を荒らし、ヴォルブシュ(英語版)から北はウェンツィツァ(英語版)を経由してヴウォツワヴェクまで進んだ後南転し、コニン(英語版)とシェラツ(英語版)を蹂躙してヴロツワフに向かった。一方、当時ポーランドの諸公達の中で最も勢力を持っていた公の一人であるシロンスク公ヘンリク2世は、レグニツァ近辺で自軍と同盟者の軍勢を招集した。ヘンリク2世はさらに軍勢の規模を大きくするため、シロンスク公国で最も大きな都市の1つだったヴロツワフを見捨て、モンゴルの荒らすに任せた。

バイダルが率いる支隊は、サンドミェシュ(英語版)からポーランド南部に進撃した。3月18日フミェルニクの戦いでヴウォジミェシュ(ポーランド語版)率いるクラクフとサンドミェシュの連合軍が再び敗れ、ヴウォジミェシュが戦死するとポーランドはパニック状態となった。3月24日、市民が見捨てたクラクフ市はモンゴル軍によって包囲され焼き払われた。

バイダルが率いる支隊はその後、ポーランドの南部、西部のタルチェク(英語版)(タルチェクの戦い(ポーランド語版))、ビトムラチブシュ(ラチブシュの戦い(ポーランド語版))、オポーレ(オポーレの戦い(ポーランド語版))を蹂躙し、ヴロツワフでオルダの支隊と合流した。一方、ヘンリク2世はボヘミアからヴァーツラフ1世の率いる大軍が救援に来るのを待っていた。バイダルとコデンがヴロツワフを包囲するかを思案中に、ヘンリク2世の軍勢にボヘミアの援軍が近付いているのを知った。バイダルとオルダが率いる2つの支隊はヴロツワフを離れ、ヘンリク2世の軍勢がボヘミア軍と合流するのを阻もうとした。

4月9日、モンゴル軍はレグニツァ近郊のレグニツキェ・ポーレ(ポーランド語でレグニツァの野)で、ヘンリク2世率いるポーランド・ドイツ連合軍と対峙した(レグニツァの戦い(ワールシュタットの戦い))。ポーランド・ドイツ連合軍には、主力となるドイツ騎士団、オポーレ公ミェシュコ2世の軍隊、トゥルスクとフミェルニクで敗北したポーランド軍、そしてテンプル騎士団ホスピタル騎士団のメンバー達と少数の外国人義勇兵が加わっていた。ヘンリクの軍勢は敵と同数かそれ以上の数の軍隊を擁し、有効な戦略を採用していたが、組織・規律・武装・経験に勝るモンゴル軍には全く歯が立たず、4月9日の戦いで大敗、ヘンリク2世は戦死した。モンゴル軍はレグニツァ城を占領しなかったが、ヴロツワフなどのシロンスク公国領内をほしいままに略奪して回った。

ポーランド攻撃に従事した後、バイダルとオルダの支隊はボヘミア軍との衝突を避けて5月にはハンガリー領モラヴィア(現チェコ東部)地方に移り、1241年オロモウツでオロモウツの戦い(チェコ語版、ロシア語版)を行なった。そこでハンガリーを西進中のバトゥ率いる本隊との合流を待った。4月11日バトゥ率いる本隊は、モヒの戦いでハンガリー軍を破るとバイダルの支隊と合流し、孤立していたバーベンベルク家フリードリヒ2世ウィーンを目指した。
影響

この時期の欧州は、グレゴリウス9世フリードリヒ2世を支持するロンバルディア同盟とが対立した「教皇派と皇帝派」の対立の真最中であったが、1241年8月22日にグレゴリウス9世が逝去し、10月25日のコンクラーヴェで選出されたケレスティヌス4世も11月10日に死去し、ローマ教皇はインノケンティウス4世が即位する1243年6月28日まで不在であった。


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