モンゴルのニザール派討滅(モンゴルのニザールはとうめつ)は、1253年にフレグ率いるモンゴルの遠征軍によってニザール派(暗殺教団)が討滅された出来事である。モンケ・カアンの命により始まった弟フレグを総司令とする西アジア遠征において、ニザール派の拠点たるアラムートとアッバース朝の拠点たるバグダードの征服は最も重要なものと位置づけられていた[1]。 フレグのニザール派討伐は、モンゴルへの徹底抗戦を主張するイマーム・ムハンマド3世率いるニザール派指導者の内部分裂が激化する中、クーヒスタンとクミスの拠点への攻撃で始まった。ムハンマド3世がモンゴル軍の侵攻を目前にして急死すると息子のルクヌッディーン
概要
生き残った多くのニザール派は、西アジア、中央アジア、南アジアに散在した。この戦役後のニザール派教徒の動向については記録が少ないが、ニザール派のコミュニティは存続し現代に至っている。 モンゴルのアラムート征服に係る最も重要な一次史料は、歴史家アラーウッディーン・アターマリク・ジュヴァイニー著の『世界征服者史(T?r?kh-i Jah?n Gush?-yi』である[2]。ジュヴァイニーはフレグ率いるモンゴル軍に従軍していたのみならず、ニザール派との交渉も担い、降伏後のニザール派から図書の接収を行うなど、当事者の一人としてアラムート征服について最も詳しい知識人であった[3]。ジュヴァイニーは『世界征服者史』の叙述の3分の1をニザール派の歴史とモンゴルによるニザール派平定に費やしており、この戦役をイスラーム圏におけるモンゴル帝国による征服の頂点として描いている[4]。もっとも、ジュヴァイニーの記述には屡々矛盾や誇張が含まれているため、史家は他の史料を用いてこれを補っている[2]。 『世界征服者史』以外に重要な史料としては、モンゴル軍侵入前後のカスピ海南岸地帯の歴史に詳しい『タバリスターン史
主要史料
背景
ニザール派の起源ハサン・サッバーフの想像画
ニザール派はイスラーム教シーア派の分派であるイスマーイール派の一派である[8][9]。11世紀中頃にイラン高原のクムで生まれたハサン・サッバーフはイスマーイール派の教義を学び、1090年9月4日にアラムート城に入ってこの地を拠点とした[10][11]。この頃イランを支配していたセルジューク朝はハサン・サッバーフを討伐せんとしたが、ハサン・サッバーフはセルジューク朝の宰相ニザームルムルクを暗殺することでセルジューク朝軍を撤退に追い込んだ[12]。
以後、ハサン・サッバーフの築いたニザール派勢力は天険の山城群構築と暗殺手段の組織化によって独立を維持し、イランの支配者がセルジューク朝からホラズム・シャー朝、ホラズム・シャー朝からモンゴル帝国に移った13世紀半ばに至るまで健在であった[13][14]。しかし暗殺を度々用いたことに加え、第4代指導者のハサン2世の治世に既存のシャリーアが否定されると、ニザール派は周辺のスンナ派ムスリムから忌み嫌われ「ムラーヒダ(道に迷える者=異端者・邪教徒)」の異名で知られるようになる[15]。このため、モンゴル側の漢文史料ではニザール派は「ムラーヒダ」を音訳した木剌夷国(『元史』太祖本紀)・木乃兮(『元史』郭侃伝)などと表記される[16]。 モンゴル帝国とニザール派の関係は、モンゴル軍がホラズム・シャー朝を瓦解させアム河以南の「イーラーン・ザミーン(イランの地)」に初めて侵入した1220年代に始まる[17]。
両国の接触