モンゴルのジャワ侵攻
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モンゴルのジャワ侵攻
モンゴル帝国の征服戦争


大元ウルスの艦隊(Sir Henry Yule/1871)

至元29年12月14日 - 至元30年4月24日1293年1月22日 - 5月31日[1]
場所ジャワ島東部、マジャパヒト及びダハ(クディリ)
結果マジャパヒト王国の勝利

衝突した勢力
ダハ陥落前

大元ウルス

マジャパヒト王国
ダハ陥落前クディリ王国
ダハ陥落後大元ウルスダハ陥落後マジャパヒト王国
指揮官


史弼

イグミシュ

高興

ラーデン・ウィジャヤ


ジャヤカトワン 

アルダラージャ 

戦力
20,000名
1,000艘不明
被害者数
最終的な死者数は3,000を越えるジャヤカトワン王の軍団は溺死者が数万人、殺された者は5000人余り

モンゴルのジャワ侵攻(モンゴルのジャワしんこう)では、1293年ジャワ島に侵攻したモンゴル軍が引き起こした諸戦闘について解説する。

モンゴル帝国大元ウルス)第6代皇帝クビライが派遣した使者がシンガサリ王クルタナガラによって入墨をされて返されるという事件を切掛けとして始まったジャワ遠征であるが、モンゴル軍がジャワ島に到着するまでにクルタナガラ王はクディリのジャヤカトワン王によって弑逆されてしまっていた。モンゴル軍はクルタナガラ王の女婿であったウィジャヤに誘導されてジャヤカトワン王を討ったものの、その後ウィジャヤの裏切りにあってジャワ島からの敗退を余儀なくされた。

モンゴル軍にとっては全くの失敗に終わった遠征であったが、一方でモンゴル軍を上手く利用したウィジャヤはマジャパヒト王国を築き、マジャパヒト王国は東南アジア島嶼部の大部分を支配する大国に成長するに至った。また、遠征の失敗にもかかわらず、ジャワ遠征以後中国大陸とジャワ島の貿易交流は増大しており、東南アジア島嶼部にとっては歴史の大きな転換点となる事件であったといえる[2]
背景クルタナガラ王時代のシンガサリ王国の領域

中国大陸では古くより東南アジア諸国との交易があったが、宋代に入って「文献史上確認される最初の中国人海商」と呼ばれる毛旭が登場するなど、海洋交易が飛躍的に増大した。「ジャワ(闍婆)」という名称が始めて史書に現れるのも宋代に入ってからであった[3]。この頃海洋交易が盛んになった理由は華南地域の経済的繁栄、アラブ商人の進出、航海技術の発達など様々挙げられるが、南宋を滅ぼしたモンゴル帝国(大元ウルス)の積極的拡張政策もこの傾向を後押した。モンゴル帝国は元来内陸国であり海洋交易とも縁が薄かったが、内戦を制して第6代皇帝となったクビライは早い段階から海洋進出を意識していた。強力な水軍を有する南宋を攻略するに当たってクビライは時間をかけて水軍を養成し、年代に南宋が滅亡するとこの水軍は日本遠征も含め海外進出に用いられるようになった。

南宋が滅亡して間もなくの至元15年(1278年)8月にはソゲドゥ(唆都)・蒲寿庚らに「諸蕃国で東南島嶼に列居する者」の招論が命じられ[4][5]、至元16年(1279年)6月には早くもチャンパ(占城)・マーバル(馬八児)国より派遣された使者が訪れた[6]。同年末には改めて「海内諸番国主」への使者派遣が行われた[7][8]。大元ウルスの活発な海洋進出により、至元23年(1286年)9月には馬八児(Mabar)・須門那(Sumnath)・僧急里(Cranganore)・南無力(Lambri)・馬蘭丹(?)・那旺(Nakur)・丁呵児(Tringanu)・来来(Lala/グジャラート地方)・急闌亦帯(Kelantan)・蘇木都剌(Sumudra)など10カ国が大元ウルスに使者を派遣するに至った[9][10]

一方、 ジャワ島では11世紀よりシンガサリ王国がジャワ島を統一し栄えており[11]、 第6代国王のクルタナガラ王はスマトラ島やバリ島に派兵し、積極的な対外拡張政策によって広大な勢力圏を築いていた[12][13]。『デーシャワルナナ』は「庇護を求めて(クルタナガラ)王の足もとに参上する」国々としてスンダ(ジャワ島西部)・マドゥラ島・パハン(マレー半島)・マラユ(スマトラ島)・グルン(ゴロン島/バンダ海周辺の群島の総称)、バクラプラ(タンジュンプラの別名/カリマンタン島南部)を列挙している[14]。また、チャンパ国の史料には13世紀末の君主ジャヤ・シンハヴァルマン3世がジャワ人のタパシーを娶ったと記録されているが、これは大元ウルスの南海進出に対抗して結ばれた姻戚関係ではないかとする説もある[14]

クビライは至元17年(1280年)10月にジャワ国に使者を派遣することを決め[15]、同年11月にジャワに対して詔が下された[16]。さらに至元18年(1281年)11月、ジャワ国主自ら来観するよう詔が下され[17]、この時派遣された宣慰の孟慶元・万戸の孫勝夫らは至元19年(1282年)7月に帰還した[18]。後にクビライは「初めジャワと使を通じ、往来し好を交えた」と述べていることからこの時点では友好的に使者の往来が行われていたようだが、ジャワ側からの使者派遣については記録に残っていない[19]

大元ウルスを揺るがしたナヤンの乱が勃発した至元24年(1287年)以後、クビライは東南アジア諸国に対する姿勢を経済・通商を基盤とする平和友好路線に改め、同年中にはシンハラ国を始め24カ国が大元ウルスに使者を派遣した[20]。至元26年(1289年)、ジャワ島のシンガサリ王国に対しても同様に孟右丞[21]なる人物が使者として派遣されたが、モンゴルへの臣属を拒んだクルタナガラ王によって顔に入墨を入れて送り返されてしまった[22][23]。これに激怒したクビライはジャワ遠征を決意し、同年中には史弼に対してジャワ遠征の意図を明らかにし史弼もジャワ遠征司令官の地位を受諾することを受け容れている[24][25]。以上の経緯を踏まえ、丹羽友三郎はジャワ遠征の起こった原因として、モンゴル帝国(大元ウルス)とシンガサリ王国双方が積極的拡張政策を取っており、双方の君主も好戦的な人物であったことを挙げている[26]。なお、『元史』ジャワ伝は「その帥を海外諸番に出すもの、ただジャワの役を大となす」と記しており[27]、クビライが行った海外遠征の中でもジャワ遠征が特記すべき重要なものであったと認識されていたようである[28]
モンゴル軍の構成14世紀中国沿岸部のジャンク船

モンゴルのジャワ遠征軍は、従来のモンゴル軍のように皇族や建国の功臣の一族から司令官を立てることをせず、漢人の史弼を総司令として、ウイグル人のイグミシュと南人の高興の二人の副司令が補佐する形を取った[29]。史弼・イグミシュ・高興がジャワ遠征軍の中核であったことは各史書で特筆されており、『元史』ジャワ伝は史弼・亦黒迷失・高興を司令官とし、福建・江西・湖広三行省から集めた兵2万、左右軍都元帥府2・征行上万戸4、舟1千艘、給糧1年分・鈔4万錠、虎符10・金符40・銀符100・金衣段100端がジャワ遠征のため準備されたと伝えている[30][31]


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