モンキー乗り(モンキーのり、英:Monkey crouch, Monkey seat)は、競馬における騎乗法の一つ。鞍に腰を下ろさず、乗馬の一般的様式よりも短く設定された鐙(あぶみ)の上に立ち、腰を浮かせて背を丸め、膝でバランスを取りながら前傾姿勢で騎乗する方法。18世紀にアメリカで生まれたとされ、20世紀初頭から世界的に普及した。名称は、普及の契機を作ったアメリカ人騎手・トッド・スローン(英語版)がイギリスで初めて騎乗した際、その姿勢が「枝の上の猿(Monkey on a stick)」と喩えられたことによる[1][2]。競走馬に騎手の体重をかけにくい乗り方で、馬に対する負担が少ない反面、騎乗姿勢は不安定になりがちであるといわれる[誰によって?]。日本ではモンキー乗り以前の騎乗法を天神乗りと呼ぶこともある。
なお競艇では、選手がボートでターンマークを回るときにこのような姿勢を取ることが多く、モンキーターンと呼ばれる。目次 モンキー乗りの発祥地はアメリカとされる。起源については黒人の少年が我流で編み出したという説[3]、デイリー・テレグラフによるネイティヴ・アメリカンの騎乗法を真似たという説[4] があるが、定かではない。いずれにせよ最初に採用したのは黒人騎手であり、18世紀のイギリス植民地時代から存在し、現地を訪れるイギリス人を驚かせていたとされる[5]。 近代競馬の発祥地であるイギリスにおいて初めてモンキー乗りを披露したのも、黒人騎手のウィリー・シムズ
1 歴史
2 米欧におけるスタイルの相違
3 日本におけるモンキー乗り
4 脚注
5 参考文献
歴史
モンキー乗りが普及するきっかけを作ったのは、やはりアメリカ人であったが、しかし白人のトッド・スローンであった。シムズから2年後の1897年10月に渡英したスローンはシムズと同じく嘲笑されたが、ニューマーケットに数週間の滞在で53戦20勝という成績を残し、イギリスの人々を驚かせた。翌年も10月からニューマーケットで次々と勝利を重ね、2度の遠征で計98戦42勝の成績を残し、モンキー乗りの評価を決定的なものとした[6]。1899年からはイギリスでフルシーズンの騎乗を行い、シボラでクラシック競走の1000ギニーに優勝するなどし、年間では343戦108勝で5位に付けた。騎乗数は160勝を挙げた1位サム・ローテスの半分ほどであった。スローンは騎手を目指す少年達の憧れの的となり、時を同じくしてイギリスの騎手達もモンキー乗りの習得へ向かった[7]。
モンキー乗りの普及はまた、ヨーロッパ各国において独占的に騎乗を行っていたイギリス人騎手の権威失墜と、それに代わってのアメリカ人騎手の急速な台頭をもたらした。ヨーロッパ競馬に造詣が深かった獣医学者・須藤義衛門は1913年当時の状況を以下のように伝えている。英国の競馬社会では、今や自国人の騎手を止めて、名馬にはこのアメリカ人の騎手か、さもなければアメリカ流に移ったところの英国騎手のみを乗せるようになってきた。例えばエス、ローテス氏の如き有名なる人までもこの新式流儀に換えた。然るにまた、全然アメリカ式に屈服せない強硬派がある(英国本党とも云う)。今より13年前、すなわち1900年の秋の競馬においてこの派は勝利を占め、鳥渡一息ついたのに勢力を得て当時米国より率先渡来したトッドスローなる騎手に故障を申出でて、薄弱なる理由の下に英国で競馬馬に乗る事を封じてしまった。しかしながらこれらの事柄は大勢の挽回に何の効果もなく、英国人のこの独占時代は永久に過ぎ去ってしまって、全欧大陸中墺洪国では、このアメリカ流の新式なるについて早くも研究を遂げ、同国の重なる競馬厩舎は米国の騎手を雇い入れてしまった。 ? 須藤義衛門「競馬問答」(『馬事功労十九氏事蹟』所収)
※旧仮名遣いは現代仮名遣いに、略表記を除く国名の漢字表記はカナ表記に改め、適宜句読点を加えている。
須藤によれば、当時ヨーロッパでは「アングロマニア」と呼ばれたイギリス風物礼賛があり、イギリスを発祥とする近代競馬の騎手という職業も、イギリス人の特殊技能であると考えられていた。ために、馬事馬産の先進国であったドイツ帝国、オーストリア=ハンガリー帝国、ロシア帝国といった国々でさえも、自国で積極的に騎手を養成することをせず[注 1]、競馬開催時には高額な報酬をもってイギリスから騎手を招いていた。しかしスローンや、彼に続いたアメリカ人騎手の活躍でイギリス人騎手の特権的地位は崩壊へ向かい、これに伴って各国(上記のほかフランス、イタリアなど)において自国騎手養成への気運が高まった[8]。