モワンヌ島
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Ile-aux-Moines



行政
フランス
地域圏 (Region) ブルターニュ地域圏
(departement) モルビアン県
(arrondissement)ヴァンヌ郡
小郡 (canton)ヴァンヌ=ウエスト小郡
INSEEコード56087
郵便番号56780
市長任期)ジャン・プレサール
2008年 - 2014年
自治体間連合 (fr)fr:Communaute d'agglomeration du Pays de Vannes
人口動態
人口542人
2007年[1]
人口密度169人/km2
住民の呼称Ilois, Iloises
地理
座標.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯47度35分51秒 西経2度50分36秒 / 北緯47.5975度 西経2.843333度 / 47.5975; -2.843333座標: 北緯47度35分51秒 西経2度50分36秒 / 北緯47.5975度 西経2.843333度 / 47.5975; -2.843333
標高平均:m
最低:1m
最高:31 m
面積3.20km2
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公式サイト ⇒http://www.mairie-ileauxmoines.fr/
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地図

イル=オー=モワンヌ (Ile-aux-Moines、ブルトン語:Enizenac'h)は、フランスブルターニュ地域圏モルビアン県コミューンモルビアン湾最大の島モワンヌ島から構成されている。
由来

最初は「短い十字架」を意味するCrialeis、ついで「僧侶の島」を意味するEnez manac'h(11世紀のつづりではEnest Manach)と呼ばれた。現在のブルトン語名Enizenac'hはさらに短縮された名称である。

地名は、ルドンのサン・ソヴール修道院の聖職者(彼らの誰一人も島に住んだことはなかった)が島の所有者であったという史実からきている。
地理

モルビアン湾内にあるモワンヌ島は、最大の長さが7km、幅3.5kmある。島の形状は十字に似ており、島のいかなる部分も海から450m以上離れていない。

ラルモル=バダン、バダンの各港から渡るのが一般的である。1980年より島の南端が保護区となっている。ペンアップ岬はコミューンが管理している。地中海性の植生を保護するためである。
歴史ペンアップのドルメン

モワンヌ島には新石器時代から人が定住しており、今だ見られるドルメンやその他遺物が証明である。ガロ=ローマ時代の定住地の跡も見つかっている。

854年、ブルターニュ王エリスポエは島をルドンのサン・ソヴール修道院(彼の父親ノミノエが創設)へ寄進した。島は言わば修道院の屋根裏となった。10世紀のノルマン人侵攻後、島はアラドンの教区に加わった。1543年には島そのものが教区となった。1792年には名前がフランス語化されIsle-aux-Moinesとなった[2].
フランス革命時代にはアンシャン・レジームを彷彿とさせる名が嫌われたため、イル・デュ・モルビアン(Isle-du-Morbihan)と改名させられていた[2]

昔から、島の女性は自分で夫を選ぶ権利を持っていた。これは彼女たちの肩に島の経済が依存していたためで、多くの島の男たちは船乗りとなって島から出ていたのである。

今日、島には海軍協会がある。ペンアップ岬は若者に航海技術を教える学校の本校がある。
人口統計

1962年1968年1975年1982年1990年1999年2006年


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